本当に価値のあるAI人材とは誰か?
最近、ある記事がSNSで話題になっていた。内容は、生成AIツールを活用して注目を集めていた若手が、大手企業に新卒で入社したものの、そこでの現実に強い違和感を覚えた――というものだ。読んでいて妙な居心地の悪さを感じたが、それがなぜなのか、自分なりに分析してみた。
表面的な"すごさ"の裏にある薄さ
当該人物は、自分を「AI無双」と称している。しかし記事を読む限り、実際に行っていたことは、ChatGPTなどの既存ツールをGUI経由で操作する程度。技術的な用語として登場するのはノーコードツールの一つであるDifyくらいで、機械学習の基本的な技術――PyTorchやTensorFlow、あるいはLoRAやRAG構成といったキーワード――は一切出てこない。
技術者としての視点で見ると、PythonでAPIを直接たたいて業務を効率化している人は既に多数いる。そうした中で、Difyのようなツールを触ってSNSで発信しているだけの人物を、果たして「AIエンジニア」と呼べるのか。少なくとも「専門家」とは言いがたい。
組織に入ってからの違和感の正体
さらに気になったのは、組織人としての視点が欠けている点だ。たとえば、社内研修やセキュリティ教育を否定的に語っていたり、生成AIが使えないから「自分の力が封じられた」と表現していたりする。しかし、それらは多くの企業において当然の前提であり、業務の性質や社会的責任と密接に関わっている。
また、「やりたいことができない」と嘆いているものの、会社の中期経営計画やビジョンといった全体方針に対する理解が感じられない。社長からの「辞めるか、会社を変えるか」という問いに「変える」と答えたのに、その後に具体的な行動が伴っていないのも残念だ。
なぜこのような記事がバズるのか
この手の話がSNSで拡散される理由は、ストーリー性が強く、共感や反発を呼びやすいためだろう。個人の体験談という体裁をとりつつ、実際には「自分は特別だ」「企業は遅れている」といった構図が前提になっている。その構図が、多くの人の感情を刺激する。
だが、冷静に見れば、そこには技術的裏付けも業務的成果も乏しい。現代は「薄い実力と強い自己主張」が交錯する時代だ。SNS上ではそのようなスタンスが一時的に脚光を浴びることもあるが、現場ではやはり実務的な貢献が評価される。
技術者・組織人として、どうあるべきか
今回の一件を通じて、自分自身のあり方についても考えさせられた。生成AIやLLMを扱うなら、自作LLMやOSSモデルの安全な社内導入といった、より本質的な技術力が問われる。単にツールを触るだけではなく、それを現場の課題解決に落とし込む力が重要だ。
また、組織の中で提案を通すには、ステークホルダーとの合意形成や、会社のビジョンとの整合性といった視点も欠かせない。表面的なスキルだけでなく、信頼される振る舞いや実行力も含めての「プロ」なのだ。
SNSやnoteに流れる言説に対し、無批判に共感するのではなく、常に自分の頭で考え、評価できる目を持ちたいと思う。