現代の「三方良し」は、どこまでの範囲を指すべきか

はじめに

「三方良し」という言葉を、学生時代に小説を通して知った。「売り手良し・買い手良し・世間良し」。近江商人の理念として有名なこの言葉に、私は当時「昔の商売人は、先進的で倫理的な発想をしていたんだな」と感銘を受けた。

だが、現代においてこの「三方良し」、とりわけ「世間良し」という要素が、逆に商売や活動の足を引っ張ってはいないだろうか?本記事では、「世間良し」の“世間”とは一体どこまでを指すべきなのか、現代的な視点で考えてみたい。

世間が“無限”になった時代

私の主張はシンプルだ。インターネットによって「世間」が過剰に拡張されてしまった現代においては、「世間良し」の“世間”を、本来の「売り手と買い手の取引に影響がある近隣の人々」までに制限するべきだということである。

江戸時代の近江商人が想定していた「世間」は、せいぜい町内や同業者、常連顧客といった範囲だったはずだ。ところが現代では、まったく無関係な他県・他国のSNSユーザーの声すら「世間の声」として扱われてしまう。これが問題の根本だ。

炎上事例に見る“拡張された世間”の危険

この現象を象徴する事例は枚挙にいとまがない。たとえば、とある観光地が地域活性化の一環としてマスコットキャラクターを作成した。観光客も地元住民も、そのキャラクターに対して否定的な反応はほとんどなく、多くは好意的か、少なくとも無関心だった。

しかし、まったくその土地に縁もゆかりもない、訪れたこともない、訪れる気もない一部の“外部の人”がSNSで「スカートが短くて性的だ!」と批判を展開。すると炎上が拡大し、観光地はその企画を中止。予定されていたイベントも取り止め、大きな経済的損害を被った。

このような例は、単なる極論ではなく、実際に何度も繰り返されている。ここで問いたいのは、「その“批判者”は、本当に“世間”なのか?」ということだ。

本来の「世間良し」とは何か?

三方良しにおける「世間良し」は、「その取引が社会的に調和しているか」「周囲との摩擦がないか」といった意味合いであり、「無関係な誰かにまで配慮せよ」という意味ではなかったはずだ。

現代の問題は、「世間の声」が無制限に拡張され、しかも声の大きいごく一部の主張が“正義”として扱われてしまう点にある。これは結果として、地元に利益をもたらすプロジェクトや、合意形成された取引を潰してしまう危険すら孕んでいる。

三方良しと「第4の存在」──外野という概念

ここで私は、三方良しの外にもう一つの存在、**外野(がいや)**を提唱したい。売り手でも買い手でもなく、そして当該地域や当事者と何ら関係性を持たない無関係な人々。にもかかわらず、SNSという megaphone(拡声器)を通じて過剰な干渉を試みる存在たち。

この外野は、もはや三方良しの範囲に含まれるべきではない。三方良しを「四方良し」に拡大し、外野までも満足させようとすれば、それは不可能な全方位配慮に陥り、萎縮と自己検閲だけが残る社会になる。

外野の声が影響力を持つ時代だからこそ、私たちはあえて「誰を“世間”とみなすのか」を限定的に再定義しなければならない。

おわりに:三方良しを“四方良し”にしないために

現代の三方良しは、慎重に再定義されるべきだ。「売り手良し・買い手良し・世間良し」とは、関係する当事者とその周囲の生活圏に実質的影響を与える“実体的な世間”に限って考えるべきだろう。

インターネット時代において「全方位に気を使う商売」は、“三方良し”ではなく“四方良し”であり、この実現は非常に難しい。四方良しを目指した結果、萎縮した社会になることを避けるためにも、私たちは「どの“世間”に良しとするか」をもっと意識的に選ばなければならない。

三方良しは、すべての声に従うことではない。「実際に関わる人に誠実であること」。それこそが、時代を超えて変わらぬ本質なのではないだろうか。