就職氷河期と世代責任――遅すぎた救済は誰の負担か
はじめに
ここ数年、「就職氷河期世代の救済」という言葉が突如として政策の場で語られるようになった。だが、その違和感は拭えない。就職氷河期とは1990年代後半から2000年代初頭にかけて、バブル崩壊後の極端な就職難に直面した世代だ。なぜ今さら? なぜ20年以上も放置された世代が、今になって「支援の対象」になっているのか。
その背景には、冷徹な政治的現実がある。すなわち、団塊世代という巨大な票田が高齢化によって政治的影響力を失いつつあり、次に無視できないボリュームゾーンとして浮上したのが就職氷河期世代だった、という構図だ。政治家が彼らを支援対象とし始めたのは、理念や倫理からではなく、選挙戦略上の“合理”に過ぎない。
さらに掘り下げると、見えてくるのは「責任を取るべきだった世代の静かな退場」と「未来世代への負担転嫁」という二重構造である。本記事では、その構造的すり替えの全体像を明らかにしていく。
団塊世代が責任を取らなかった構造
団塊の世代は、就職氷河期世代が社会に出る頃、企業や官僚機構の中枢を担っていた。人員削減、正規雇用の抑制、新卒偏重主義の温存、非正規雇用の拡大といった方針を決め、実行したのもこの世代だった。
本来であれば、能力のある氷河期世代が正社員として登用され、団塊世代は徐々に退場していくのが健全な世代交代だった。だが現実には、団塊世代はポストを死守し、自らの退職時期まで雇用や昇進の道を閉ざし続けた。
この世代がまだ現役だった時期に氷河期救済を語れば、その責任は彼らに直撃する。また、正社員ポストの多くを若い世代に譲る必要もあった。だからこそ、団塊世代は消極的に、あるいは積極的に、氷河期支援の世論形成を回避し続けたのではないか。そうした仮説は、現実の政治とメディアの沈黙から見ても、あながち否定できない。
そして定年を迎えた今、彼らは現役を退いた。責任を問われることなく、社会保障の受給者として「逃げ切った」のである。こうして、氷河期世代の救済が語られ始めたのは、団塊世代が「責任を取らなくて済む立場になってから」だ。
氷河期世代の固定化と手遅れの救済
20代・30代の再チャレンジ期を棒に振り、40代・50代で支援策がようやく立ち上がった氷河期世代。だが、それは「救済」というにはあまりに遅く、そして弱かった。職業訓練や正社員登用制度も整備されたが、年齢的・家庭的・身体的な制約から、活用できる人は限られた。
この世代は、正規雇用の実績も年金の納付履歴も薄く、将来は生活保護の申請者として社会保障財政を圧迫する可能性が高い。それにもかかわらず、社会的・制度的には「自己責任世代」として20年もの間、冷遇されてきた。
本来、氷河期世代を長期的な構造として正社員化し、雇用・年金・税収という形で国家財政に貢献してもらうべきだった。しかし団塊世代がそれを阻害し、構造としての格差を温存したことにより、日本社会は「安く雇えない非正規労働者」を量産し、将来の財政リスクを先送りする結果になった。
ゆとり世代以下が背負う三重の負担
この構造のツケを背負わされるのが、人口の少ないゆとり世代以下である。彼らは、次の三つの世代的コストを同時に背負わされている:
- 団塊世代(高齢層)の社会保障費
- 氷河期世代の再就職支援や生活保護
- 自身の子育て・教育費用
それでいて、若年層の可処分所得は減少し続け、将来設計の見通しも立たない。実質的には、40代で雇用の閉塞を迎え、終身雇用や年金の恩恵もほぼ期待できない“損な世代”である。
このような不公正な再分配構造が維持される限り、少子化が止まるはずがない。将来世代にとって「損な未来」しか見えないのであれば、生まない・結婚しないという選択は合理的ですらある。
救済するか、切り捨てるか――情ではなく計算で決めるべき
もはや問題は倫理や情ではない。「就職氷河期世代を救済しないことで、増える生活保護費と治安の悪化」というコストと、「救済のための政策実行コスト」のいずれが軽いか、という国家の会計上の判断である。
冷たいようだが、国家運営において「誰を切り捨てるか」を決めなければ、全員が沈むことになる。就職氷河期世代を救済することが国家全体の持続可能性を高めるのであれば、それは“情”ではなく“投資”と見なされるべきである。逆に、無理に救って将来世代に重荷を背負わせるならば、それもまた「未来の破壊」につながる。
結論
就職氷河期世代を巡る議論は、もはや“かわいそうだから支援しよう”というレベルを超えている。社会全体の制度設計の問題であり、次世代にどれだけのツケを回すかという政治的・財政的な問題だ。
だが忘れてはならないのは、この構造を招いたのは団塊世代であるという事実だ。彼らは決定権を握り、恩恵を受け、最後には責任を取らずに逃げ切った。
であれば、そのツケの一部を、今なお資産や年金という形で守られている団塊世代に支払わせるという選択肢も、本来検討されるべきである。少なくとも、すべてのコストを未来世代や氷河期世代に押しつけるのは、道義的にも制度設計上も持続可能ではない。
“誰が責任を取るべきか”という視点を欠いたまま「支援」だけが語られるならば、それはまた新たな不公正の温床となる。