技術者の楽しい落とし穴──自作治具とコスト意識のジレンマ
製造業に身を置く技術者であれば、一度は「金をかけずに知恵を出す」という言葉に触れたことがあるだろう。現場で使う治具を内製し、材料費ほぼゼロ、設計・製作もすべて社内で完結──まさに職人芸ともいえる取り組みが称賛される場面も多い。
しかし、これを「美談」として無批判に受け入れていいのだろうか? 技術者としての立場から見れば、そこには深刻な構造的問題が潜んでいる。
自作治具は本当に安いのか?
一見すると材料費だけで済むように思える内製治具。しかし、人件費を考慮に入れると話はまったく変わってくる。
例えば、ちょっとした治具でも機構考案〜設計〜製図まで含めれば、どんなに早くても2週間(80時間)はかかる。技術者の人件費を安く見積もっても3,000円/時間として、80h x 3,000円 = 24万円。大企業や熟練者であれば単価は4,000円以上になり、時間もさらにかかることを考えれば、30〜40万円以上の見えないコストが発生している可能性がある。
一方で、中小の治具メーカーであれば、これと同等かそれ以下の価格で、より高い精度と確実な納期で仕上げてくれることも多い。なぜなら、外注業者は設計と製作を標準化・効率化しており、同種の治具についての知見も豊富に持っているからだ。
技術者にとって「治具設計は楽しい」──だからこそ危ない
問題は、こうした治具づくりが技術者にとって非常に楽しいということだ。ゼロから機構を考え、現場の課題を解決する。手を動かしながら創意工夫できるこのプロセスは、まさに技術者の醍醐味である。
だが、楽しさはコスト感覚を鈍らせる。社内作業であるがゆえに、納期や工数、コストといった制約が曖昧になり、ついつい時間をかけてしまう。外注であればシビアに判断するはずの部分が、自作だと“ノーカウント”になってしまうのだ。
PPM分析に見る「現場改善依存企業」の病理
こうした現場改善(カイゼン)を過度に重視する企業を、プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)分析で見てみると、「金のなる木」か「負け犬」ばかりという構成になりがちである。市場成長率が低い成熟市場にしがみつき、現場の工夫で延命を図る一方で、新たな成長市場に対する投資や製品開発が疎かになっている。
本来は「問題児」や「花形」となるべき成長分野への人的資源投資を、数万円、数十万円の自動化費用をケチるために浪費しているのだ。目の前の効率化を優先し、未来の競争力を放棄しているとも言える。
経営に助言しなかった熟練技術者の罪
特に重大なのは、こうした構造的誤りに対して、熟練技術者が経営層に対して本来行うべき助言や警鐘を鳴らさなかったことである。技術的見地から経営判断に介入できる立場にあったにもかかわらず、現場レベルのカイゼンを良しとし、自らも工夫に没頭することで、経営判断を先送りすることに加担してしまった。
この沈黙の代償は大きく、日本企業全体の競争力が30年低下する原因の一端となった。技術者が本来果たすべき「技術を活かした経営的助言」の役割を放棄したことで、構造改革のチャンスが失われてしまった。
外部産業の育成機会も喪失
さらに深刻なのは、こうした内製至上主義が外部産業の成長機会を奪っていたという事実である。もし治具や簡易自動機の設計・製作を積極的に外注していたならば、日本国内にはもっと多くの高付加価値な自動化企業や専門業者が育っていたはずである。
これは単なる社内判断の問題ではなく、産業構造全体の停滞を招いた要因でもある。つまり、現場のカイゼンを「自社の美談」で完結させてしまったことが、日本の製造業全体の発展機会を潰してしまったのである。
外注マインドを内製にも持ち込め
内製そのものが悪いわけではない。問題は、内製にかかる人的コストを正しく評価せず、“タダ”であるかのように扱ってしまうことだ。
治具を設計する際には、次のような「擬似外注マインド」を持つべきだ:
- 外注ならいくらかかるか? 納期はどれくらいか?
- この設計に何時間かかるか? その時間で他の価値創造はできないか?
- 社内の誰かに頼むとしたら、明確に見積もりを出せるか?
こうした視点を持つことで、「楽しさ」の中にある落とし穴を避け、技術者の時間を本当に価値のある場所に集中させることができる。
おわりに
治具設計は技術者にとって誇るべきスキルだ。だが、そのスキルをどこにどう使うかは、技術者の裁量ではなく、経営判断の一部であるべきだ。技術者が経営の視点を持ち、人的資源の投資先としての自分自身を客観視できるようになれば、日本の技術者文化もまた、次のフェーズへと進化できるはずだ。