パブリックドメインの写真に「転載禁止」?──博物館による囲い込み問題を考える

著作権の保護期間が切れた明治時代の写真。それらは本来、人類共有の文化財として、誰もが自由に使える**パブリックドメイン(public domain)**に属するはずだ。しかし、現実にはそうした写真に対して、博物館が「無断転載禁止」と明記している事例が少なくない。 これは法的に許されるのだろうか? 倫理的に妥当なのか? そして、こうした行為は博物館の使命に照らして正しいのか? この記事では、法律・倫理・思想の観点から、この問題の本質を掘り下げてみたい。 所有権と著作権の混同 まず確認すべきは、所有権と著作権は別物という大前提だ。博物館が明治時代の写真(例えばガラス乾板や古写真プリント)を保有している場合、確かにその「物理的な所有権」はある。しかし、そこに写っている表現についての権利、すなわち著作権は、原則として写真家の死後70年で消滅する。 つまり、その写真に著作権が残っていない場合、表現の自由な利用はすでに誰にでも認められている。ただ保管しているだけの博物館には、他人の利用を制限する権利は本来存在しない。 なぜ博物館は「禁止」と言うのか? では、なぜ博物館が「転載禁止」と主張するのか。その根拠としてよく出されるのは以下のような論点である: スキャンやデジタル修復に創作性がある 利用者が利用規約に同意したとみなされる 文化財保護や商業利用の抑制のため しかし、忠実なスキャン画像に創作性は基本的に認められないというのが、日本を含む多くの法域での判例・通説である。さらに、単にサイトに記載されているだけの禁止文言が、法律に優越することはない。利用規約の同意がなければ、契約違反にもなり得ない。 結局のところ、これらの主張は法的な裏付けが弱い「お願い」や圧力に過ぎない。 学術的自由と知の公正性 明治時代の写真は、単なる懐古趣味の対象ではない。都市景観、衣服、社会構造、植民地政策、ジェンダーなど、あらゆる学術分野にとって極めて重要な視覚的史料である。これを「無断転載禁止」として閉じ込めることは、研究・教育・報道に対する妨害に他ならない。 本来、博物館は知の番人であり、アクセスと再利用を可能にする存在であるべきだ。にもかかわらず、パブリックドメインにあるべき表現を「うちの所蔵物だから」として独占的に扱う姿勢は、知の門番に成り下がることを意味する。 国際的にはどうか? 欧米ではすでに、「OpenGLAM(Galleries, Libraries, Archives, Museums)」という運動が進んでおり、メトロポリタン美術館やライデン大学図書館などが著作権が切れた画像を明示的にパブリックドメインとして公開している。 彼らはこうした行為を、文化機関の責務と考えている。対して、日本の一部の博物館では、未だに「所蔵者による独占」という意識が強く残っているように見える。 結論:文化財は囲い込むな 著作権が切れた明治時代の写真は、公共財である。博物館がその再利用を制限することは、文化の発展を妨げ、学術的自由を侵害し、市民の表現を不当に抑圧する行為である。 所蔵者であることを理由に、著作権のない表現の利用を禁止する行為は、法的にも倫理的にも許されない。 文化を守るとは、囲い込むことではない。文化は開かれてこそ、生きた財産になる。 もし本記事が示すような事例に出会った場合は、是非その画像が本当にパブリックドメインかどうか確認し、堂々と使ってほしい。わたしたちは、文化の泥棒にはならない。

2025年6月15日

CAD設計にもリファクタリング思想を──命名・順序・座標の整合性を軽視するな

3D CAD設計の現場では、未だに「形ができればそれでいい」という感覚が根強く残っている。しかし、複雑化する製品設計や再利用性の要求が高まる中で、構造的なCAD設計=リファクタリング的視点が不可欠になりつつある。 履歴ツリーは設計スクリプトである 3D CADにおけるフィーチャーツリー(履歴ツリー)は、単なる見た目の一覧ではない。**操作は逐次実行されるスクリプトであり、順序の依存性が極めて高い。**たとえば、スケッチ → 押し出し → フィレット → カットという一連の手順の順序を変えれば、モデルが崩壊することすらある。 2D CADの「順番は自由」的な感覚のまま、3D CADを“お絵かきツール”のように使うと、設計の再利用性や保守性を著しく損なう。 命名は意図を伝えるための責任 3Dモデルの各フィーチャーに対して「押し出し1」「フィレット2」などの自動命名のまま放置していないだろうか? 命名とは設計の意図を伝えるための唯一の痕跡である。 命名がなければ、その履歴は“意味を持たない暗号列”に過ぎず、後工程や他者による改修は困難になる。命名は作業の手間ではなく、設計者としての説明責任の一部である。 座標系の一貫性は後工程の命綱 「正面」「上面」などの空間基準が部品ごとにバラバラでは、組立図や図面出力、アセンブリ挙動に支障が出る。 設計初期段階で「組立図に合わせて正面を揃える」というルールすら徹底されていない現場も多く、後工程での手戻りやトラブルの温床になっている。 CG業界との対比で見える構造意識の差 3D CG(ゲーム・映像)業界では、構造化・命名・命令の順序といったリファクタリング的視点が強く根付いている。たとえば: モデルやボーンの命名がスクリプトに直接使われる ゲームエンジンとの連携においてY軸アップや階層構造が必須 分業が前提なので、構造的整合性が文化として形成されている 一方で、CAD業界では「一人で図面を完成させればいい」という文化が根強く、設計構造そのものへの意識が著しく希薄である。 なぜ構造意識が育たなかったのか これは、2D CAD文化の延長に起因する。 2Dでは順番や依存の概念が希薄 構造化の代替手段であるレイヤーも限定的 3D CADがGUI的に扱えるようになったことで、本質を学ばずに“使えてしまう”状態が生まれた 結果、スクリプトとしての履歴構造、構造化されたデータとしてのCADモデルという視点が普及しなかった。 設計のリファクタリング文化を育てよう これからのCAD設計に必要なのは、ソフトウェア設計と同じく**「可読性」「再利用性」「構造性」**を重視する文化である。 命名は意図の伝達 順序は依存関係の表現 座標系は空間整合性の基盤 そして、リファクタリングとは「悪い設計を正すこと」だけでなく、「良い設計をより強固にすること」でもある。 設計者が自らの作業をコードと同じように“読む”“直す”“構造化する”こと。それがこれからのCAD文化を変える第一歩だ。

2025年6月14日

オープンデータってどうなった?――流行のその後と、公共×企業の新しい関係

はじめに:かつて「オープンデータ」が熱かった 2010年代前半、「オープンデータ」という言葉が一躍注目を集めた。政府や自治体が保有する各種データ(地図、統計、施設情報など)を、誰でも使えるよう機械可読な形式で公開し、透明性・利便性・イノベーションを高めるという構想だった。 当時は「トイレの位置」や「AED設置場所」までもがオープンデータ化され、オープンデータポータルやマップアプリが乱立した。しかし、最近では「オープンデータ」という言葉自体、あまり耳にしなくなった。 いったい何が起きたのか? なぜブームは沈静化したのか? 書式の不統一:構造化が崩れた 各自治体でカラム名・表記がバラバラ(“lat”, “緯度”, “latitude"など) 同じ項目でも情報粒度や定義が統一されていない 更新停止とリンク切れ:静的データの限界 自治体の異動や業務負荷により、データの更新が途絶える 形式的にExcelをアップして終わり → 時間とともに陳腐化 民間サービスの勝利:使われないオープンデータ Google Maps、Yahoo天気、鉄道アプリなどが高品質すぎて出番がない 結局、使われるのは便利な民間サービスだけ それでも「中身」は死んでいない 国のポータル(data.go.jp)は今も稼働 災害・防災系のデータ(避難所、ハザードマップ)は活用中 アカデミック用途や一部の市民アプリには一定のニーズがある さらに、SDGs文脈では目標16(平和と公正)や目標11(住みやすいまちづくり)と深く関わる。 陳腐化を防ぐ条件:三位一体の実現 すべての自治体が賛同し、書式が同じで、今後も更新される この3点が揃わなければ、どんなに立派なデータでもすぐに使い物にならなくなる。 公開範囲が偏る → 全国対応できない 書式がバラバラ → 統合・活用が困難 更新されない → 情報が信用されなくなる 解決策:公共×企業の新しい共創モデルへ いまや、自治体だけでオープンデータを成立させるのは不可能。解決の鍵は、**「倫理的に差別化すべきでない情報」**から協力のスキームを作ることだ。 ステージ1:倫理的に非公開は許されない情報 AEDの位置 避難所 災害時の通行規制 → 人命に関わる情報は、企業・自治体ともに協力しやすい ステージ2:倫理的義務はないが、競争優位にならない情報 トイレの位置 喫煙所や駐輪場 フリーWi-Fiの場所 → 「別に公開しても損じゃない」情報から広げる ステージ3:社会的価値が高く、収益とは無関係な情報 バリアフリー情報 授乳室・補助犬の受け入れ可否 → 公共福祉に資するが、競合差別化には直結しない オープンデータは「倫理×無関心×合理性」で再構築される 最初は「倫理的にやるべき」から始まり 次に「まあ公開してもいいか」になり 最後に「むしろ出したほうが利便性・評価が高い」になる これが、**「非ゼロ和の情報共有経済圏」**のあり方であり、企業が巻き込まれるべき領域である。 生成AI時代の希望:構造のズレを吸収する力 構造の不統一をAIで補正 自治体ごとのバラバラなCSVを共通スキーマに変換 リンク切れや非更新を検出・アーカイブ AIが支える「見えない地味な整備力」が、今後のオープンデータ再興に寄与する。 結び:情報を競争から解放するという思想 情報には「競争させるべきもの」と「協力すべきもの」がある。 これを見極め、前者は民間が競争し、後者は公共×企業で共有する。オープンデータはその後者の象徴であり、今こそ再評価すべき時に来ている。 ...

2025年6月13日

コミュニケーション不足が問題? それ、責任転嫁かもしれない

「コミュニケーション不足」を疑え 「現場のコミュニケーションが足りないから、トラブルが起きるんだ」――よく耳にする言葉だ。しかし、その一言で片づけてしまうことが、本当の問題解決を遠ざけていないだろうか。 コミュニケーションは確かに大切だ。情報の行き違いや誤解を防ぐためには、円滑なやり取りが欠かせない。だが、それはあくまで“潤滑油”であって、エンジンそのものではない。制度や構造、役割分担が曖昧なままでは、どれだけ話し合いをしても空転するだけだ。 責任を「現場の空気」に押しつける管理職 特に問題なのは、上司や管理職が「コミュニケーション不足」を常套句のように使い、現場の責任にしてしまうケースだ。例えば、業務フローが不明確でタスクの抜け漏れが発生した場合に、「もっとちゃんと話し合って」と指導して終わらせる。これは、構造的な設計ミスを現場に押しつけているにすぎない。 このような現象が続くと、現場では「空気を読んで動け」という圧力が強まり、曖昧な期待と責任だけが積み重なる。結果、誰もリスクを取らず、問題が発覚してから「誰が悪いのか」という犯人探しになる。これでは健全な業務改善は望めない。 RACIマトリクスという処方箋 そこで有効なのが、責任と情報の流れを明確化するためのフレームワーク、RACIマトリクスだ。これは、以下の4つの役割を明示することで、組織内の混乱や責任の曖昧さを解消する。 R(Responsible):実行責任者 A(Accountable):最終責任者(意思決定者) C(Consulted):相談・助言を行う立場 I(Informed):情報提供を受ける立場 ケース1:伝言ゲーム式の指示ミス 現場でよくある誤解:指示ミスを「コミュニケーション不足」で片づける 実際に、管理職から現場作業員への指示が曖昧なままトラブルが起きた場面がある。ある業務では、管理職が口頭で作業員Aに指示を出し、それを作業員Aが引き継ぎで作業員Bに伝えた。結果として指示がうまく伝わらず、作業ミスや遅延が発生した。 このとき、管理職は「コミュニケーション不足だ!」と現場を叱責したが、問題の本質はそこではなかった。 管理職は、作業指示を文書化していたのか? 作業員が後から確認できる手順書・基準書を整備していたのか? 引き継ぎのルールは明文化されていたのか? 属人化を防ぐための標準化は行われていたのか? これらを整備・運用する責任は、現場の個人ではなく管理職側にある。にもかかわらず、表面的な「コミュニケーション不足」論で問題の構造が見過ごされている。 このような事例こそ、「構造としての不備」を見直すべき典型例だ。 ケース2:サンプル持ち込みによるヒヤリハット 管理職がサンプル品を持ち込み、「ここに仮置きするから」と量産作業中の現場作業員に口頭で伝えた。しかし、作業員はその場での聞き取りが不十分だったり、サンプルの扱いが曖昧だったりしたため、サンプル品を量産品と誤って混ぜそうになるというヒヤリハットが発生した。 このとき管理職は「サンプルだって言って渡しただろうが!」と憤慨したが、そもそも問題はそこではない。 量産ラインにサンプル品を持ち込むべきではなかったのでは? 作業に集中している作業員に、口頭での情報伝達を行ったのは適切だったのか? サンプルの取り扱いルールや受け渡しの手順は整備されていたか? つまり、このケースは「コミュニケーションの内容」に問題があったのではなく、そもそもコミュニケーションの“発生させ方”が管理として不適切だったのである。 現場での安全や品質が要求される製造業では、「話して伝える」こと自体がリスクである場面がある。話さずとも正しく伝わる仕組み――それこそが、管理職に求められる“仕組みの設計”なのである。 このような例まで「コミュニケーションが悪い」と片付けてしまうことは、現場の緊張感や設計上の問題を見過ごす危険な思考である。以下のような場面もある。 ケース3:指示否認による混乱 「この作業はこうしておいて」とその場で指示。作業員はその通りに実施したが、後日トラブルが発生。すると、管理職は「そんな指示はしていない」と発言。現場にいた他の作業員や間接員は「いや、そういう指示してましたよね?」と困惑する。 このようなケースでは、口頭指示が記録に残らず、証拠も曖昧で、責任の所在がうやむやになる。まさに、文書化・標準化・情報共有の仕組みがなかったことによる典型的な問題であり、「指示内容が確認できる媒体がなかったこと」が本質的な原因である。 こうした構造の欠陥を放置したまま、「もっとよく話し合っていれば防げた」と現場に責任を求めるのは、単なる責任転嫁でしかない。 ケーススタディ:製品トラブル時のRACIマトリクス たとえば、製品トラブル発生時の対応を考えてみよう。 タスク R A C I 不具合の初期対応 技術担当 現場マネージャー 品質保証 営業 原因調査 技術担当 技術部長 品質保証、製造 営業、顧客対応部門 顧客への説明 営業 営業マネージャー 技術、品質保証 法務 このように整理することで、「誰に話すべきか」「誰が決定するのか」「誰まで情報を回すか」が明確になり、無駄な確認や後出しジャンケンを防げる。 定常作業こそ「コミュニケーションが不要」な状態が理想 筆者の立場から言えば、極論かもしれないが、定常作業であるならば「コミュニケーションが発生しない」状態こそが理想だと考えている。 なぜなら、定常作業とは本来、手順・品質・安全のすべてがルール化・標準化されており、教育・訓練・力量評価も事前に完了しているべきものだからだ。つまり、「誰がやっても同じ品質・手順で、同じ成果が出せる」状態でなければならない。 したがって、わざわざ毎回「こうやって」「あれは気をつけて」などと声をかけなければならない状況というのは、裏を返せばその作業はまだ非定常であり、手順・訓練・仕組みが未整備であるという証拠でもある。 つまり、コミュニケーションが頻発していること自体が“業務設計の未熟さ”を示すパラメータになり得るのだ。 だからこそ、「もっとちゃんと話し合って」は業務改善の解決策ではなく、むしろ構造的な不備をごまかす“思考停止ワード”になりかねない。 組織内の問題が起きたとき、まず疑うべきは「コミュニケーション不足」ではなく、「仕組みや責任の曖昧さ」だ。会話は大事だが、それだけでは回らない。エンジンがなければ、どんなに滑らかな潤滑油も意味をなさないのだ。 だからこそ、真の業務改善には制度設計と責任設計の見直しが必要だ。「話せばわかる」ではなく、「仕組みで回る」組織こそが、現場に余裕と成果をもたらすのだ。

2025年6月12日

Markdownを使う理由:すべての書き手に捧ぐ

「ただのメモ」では終わらない可能性 テキストを書くとき、何を使うだろうか?多くの人はWordやGoogle Docsを思い浮かべるかもしれない。しかし、文章に最小限の装飾を加えつつ、軽やかに記録を残したいとき、真価を発揮するのがMarkdownである。 Markdownは、プレーンテキスト(.txt)の手軽さと、簡易的な整形機能を両立する軽量マークアップ言語だ。例えば # 見出し や - 箇条書き のように、目で見て意味がわかる記法が特徴で、HTMLやPDFなど多様な形式に変換できる。 Markdownの魅力:5つのポイント 1. 軽くて壊れない Wordファイルはバージョンやソフトに依存しがちだが、Markdownは中身がプレーンテキスト。壊れず、いつまでも読める。 2. 記法が直感的で覚えやすい **太字**、*斜体*、[リンク](URL)のように、視認性と可読性を両立した記法。 3. どこでも使える GitHub、Zenn、Obsidian、Notionなど、多くのプラットフォームがMarkdownに対応しており、記述内容の再利用性が高い。 4. 道具を選ばない VS CodeでもTyporaでも、はてはスマホのエディタアプリでも、どこでも同じ書き心地。特定ソフトに縛られない自由さがある。 5. あとから整形・出力が容易 Markdown文書は、Pandocなどのツールを使えばPDFやEPUBへの変換も一発。ブログや技術文書、報告書にそのまま活用できる。 Markdownで“書くこと”が変わる Markdownは、メモからはじまり、次第に「書くこと」全体のスタイルを変えていく。コードやメモを混ぜた技術記録、議事録、マニュアル──どれもMarkdownで十分対応できる。 私自身、かつては.txtファイルで断片的なメモを取り続けていたが、Markdownに移行してから文書構造と可読性が劇的に向上した。今ではすべての文章をMarkdownで書いている。 よくある疑問:「覚えるのが面倒では?」 むしろ逆だ。Markdownの記法は、ほんの30分もあれば一通り覚えられる。実際、以下のような最小限のルールだけで、十分な文書が書ける: #:見出し -:リスト ** **:太字 code:コード [リンク](URL):リンク これらはどんなMarkdown方言でも通用する基本ルールであり、一度覚えれば一生使える。 「方言問題」への備え MarkdownにはGFM(GitHub Flavored Markdown)やCommonMarkなどの**方言(ダイアレクト)**が存在する。細かな差異はあるが、 表やチェックリストを書くならGFM 純粋な互換性を求めるならCommonMark といった使い分けを知っておけば困ることは少ない。必要ならAsciidocなどへの移行も視野に入る。 まとめ:Markdownは“文章のLinux”だ Markdownは、派手さはないが、信頼性と自由度を両立する道具である。必要なときにすぐに書き始められ、後から整えて仕上げられる。そういう柔らかな強さがある。 まだ使ったことがない人も、書くことに迷いがある人も、ぜひ一度Markdownで“書く体験”を見直してほしい。 関連記事 以下にMarkdowに関する関連記事を紹介する。 Typoraのすすめ MarkdownエディタとしておすすめなTyporaに関する記事だ。有料ではあるが買い切り型であり、今後もエディタ探しに無駄に費やす時間を考えれば、お得である。 Markdown方言の全体像 Markdownは簡単に構造的な文章を書くにはおすすめだが、残念なことに各処理系で方言がある。方言の全体像をまとめた記事だ。

2025年6月11日

SSG×Markdownで発信が劇的にラクになる理由

GUIで記事を書くことに疲れていないだろうか? 太字ボタンを押しても、見出しサイズを選んでも、結局「伝えたい情報の構造」が見えにくい。WordPressのようなCMSは便利だが、発信者の思考と記事構造のあいだに“操作のレイヤー”が介在しすぎている。その問題を根本から解消するのが、Markdown + SSGという組み合わせだ。 Markdownは構造思考に直結する Markdownは、見た目ではなく構造を先に書く記法だ。 ## 見出し - 箇条書き **強調** GUIでは「ここを太字にしようかな」「色は何色にしよう」など見た目の判断が先行する。それに対してMarkdownでは、情報の階層・強調・並列を考えてから文章に落とす。この違いは地味に大きい。記事を書きながら、情報のまとまりや粒度を自然と意識するようになる。 GUIの装飾操作は思考を中断させる WYSIWYGエディタ(見たまま編集)は、装飾操作と文章作成が交互に入る。 書く → 太字にしたい → ボタンを探す → マウスを使う → 書くに戻る この流れは、実は無駄が多い。Markdownでは **このように** と直接書くだけで完了。手が止まらない。思考と入力の距離が近いのだ。 静的サイトジェネレーター(SSG)との親和性 SSG(静的サイトジェネレーター)は、MarkdownファイルをHTMLにビルドして公開する仕組みだ。AstroやHugoのようなSSGは、フォルダ構造を自動でナビゲーションに変換し、見出しを目次にし、記事間のリンクも一元管理してくれる。これにより: Markdownを1ファイル書くだけで、綺麗なHTMLページになる 全体構造も自動で整理される Gitで管理できるため、リビジョン管理や差分確認も容易 GUIエディタでは「サイト全体をどう構成するか」を人力で考え、リンクを張り、カテゴリを選び…という負担がある。SSGならその多くが自動化されている。 執筆→更新→再利用の効率が飛躍する Markdown + SSGで一度書いた記事は: バージョン管理で差分を追える AIにそのまま渡して要約・再構成ができる 別の媒体(ZennやQiita、noteなど)にそのまま流用可能 とにかく再利用性と変換性が高い。 GUIでHTMLに埋まった状態のコンテンツだと、AIにも読みづらく、構造的な扱いがしにくい。Markdownなら文章が“素のまま”なので、処理・分析・変換が容易だ。 書くことに集中できる環境こそ強い SSG × Markdownは、「書くことに集中したい人」に最適な環境を提供する。 GUIで迷わない サイト構造を意識せず書ける 装飾ではなく内容に集中できる 結果として、記事数が自然と増え、ストックが溜まり、発信のエコシステムが自走し始める。これこそが最大の効率化だ。 見た目ではなく、構造と思考にフォーカスした発信。それがMarkdown + SSGの最大の強みである。 なお、SSGという仕組み自体をCMSと比較して俯瞰したい場合は、以下の別記事もあわせてどうぞ。CMS疲れを感じた背景から、構造的な代替手段としてのSSGまでを導入的に整理している。 SSGのすすめ ― CMS(WordPress)のセキュリティ対策にうんざりしてきたあなたに

2025年6月10日

CMSはなぜ脆弱なのか? よくある攻撃例と設計上の欠陥を解説

WordPressのようなCMS(コンテンツ管理システム)は、長年にわたりブログや企業サイトで広く使われてきた。しかし、近年その「セキュリティ設計の甘さ」が問題視されている。なぜCMSは脆弱になりやすいのか?本記事では、構造的な問題に焦点を当てて解説する。 よくあるCMS脆弱性の具体例 CMSの脆弱性は単に構造だけでなく、具体的な技術的ミスや攻撃ポイントに根ざしている。よくある脆弱性には次のようなものがある: 管理画面への総当たり(ブルートフォース)攻撃 プラグインのアップデート漏れによる既知脆弱性の放置 クロスサイトスクリプティング(XSS) データベースインジェクション(SQLi) これらはすべて、CMSが常に動的に動作し、かつ管理画面が公開されているという構造的特徴に起因している。 管理・表示・生成が同居する「一枚岩構成」 WordPressの典型的な構成は、以下のような「オールインワン型」だ: PHP + MySQL のLAMP環境 管理画面(/wp-admin)が公開サーバ上に存在 ページ生成はアクセス時にPHPでリアルタイム実行 つまり、「管理(入力)」「表示(出力)」「生成(ビルド)」の3機能がすべて1つの公開サーバで同時に動作している。この構成は利便性を優先する代わりに、セキュリティやスケーラビリティの面で明らかな犠牲を払っている。 公開サーバに管理画面がある不自然さ 管理画面が公開サーバに設置されているというのは、よく考えると不自然だ。攻撃者は、/wp-adminという予測しやすいURLを狙えば、管理インターフェースに直接アクセスできてしまう。仮にログイン試行を防げたとしても、「そこに管理画面がある」という事実自体がリスクを生む。 しかも、管理操作はPHP経由でDBを直接叩く構成であるため、脆弱なプラグインや設定ミスによって、システム全体への侵入経路になりうる。 リアルタイム生成のムダと脆弱性 WordPressは、アクセスのたびにPHPがHTMLを動的に生成し、DBにアクセスして内容を取得する。そのため、静的な内容であっても常に処理が走る。これは次のような問題を引き起こす: 負荷が高い:アクセスが増えるとサーバーがボトルネックになる 攻撃対象が広い:リクエストに応じて処理が走るため、DoS攻撃や脆弱性スキャンに弱い 静的なコンテンツであれば、ビルド時にHTMLを生成してCDNに載せるだけで済むはずなのに、それを「毎回動的にやる」というのは本質的に非効率かつ危険だ。 理想的な構成:管理・生成と表示の分離 ではどうすべきか?ひとつの解として、管理・生成サーバと表示サーバを完全に分離する構成がある: この構成の特徴: 管理画面やDBは公開されないネットワークに閉じ込める 静的HTMLをCI/CDでビルドして表示サーバにpush 表示サーバは静的ファイル配信のみを担当し、攻撃面積を最小化 セキュリティ上のベストプラクティスであるゼロトラスト原則やDMZ分離構成を取り入れることで、CMSに起因する大部分のリスクを構造的に排除できる。 CMS疲れからの脱却に向けて CMSの設計思想は「便利で何でもできる」ことにあったが、それゆえに「すべてが公開され、攻撃対象になる」というジレンマを抱えている。今こそ、構造的に堅牢なWeb構築を見直す時期に来ているのではないか。 SSG(静的サイトジェネレーター)やHeadless CMSといった手法は、このようなセキュリティ課題を根本から解決する構成を可能にする。CMS疲れに悩む人ほど、一歩引いてその構造を見直してみてほしい。 CMSとSSGの違いや、それぞれの特性を整理した以下記事もあわせてどうぞ。CMSに限界を感じたとき、どのような選択肢があるのかを俯瞰する第一歩として役立つはずだ。 SSGのすすめ ― CMS(WordPress)のセキュリティ対策にうんざりしてきたあなたに

2025年6月9日

SSGのすすめ ― CMS(WordPress)のセキュリティ対策にうんざりしてきたあなたに

10年前、「Webサイトを作るならWordPressだよ」と誰もが口を揃えて言っていた時代があった。管理画面が整っていて、テーマもプラグインも豊富、何よりレンタルサーバーに「3クリック」で導入できる。その利便性に惹かれて、当時は多くの個人・企業がWordPressを採用していた。 だが、2020年代も半ばに差し掛かり、改めて情報発信を始めようとしたとき、様子が違うことに気づく。「WordPress セキュリティ」で検索すると、出てくるのは不安を煽る記事ばかり。脆弱なプラグイン、放置されたテーマ、改ざん被害、管理画面への攻撃……。10年前の「常識」が、今やリスクの温床と化していたのだ。 CMS構成の「構造的な欠陥」 WordPressを始めとする従来型CMSの最大の問題点は、「表示」「管理」「生成」という3つの役割を1つのサーバーでまかなっている点にある。管理画面は公開URLの直下にあり、ページは毎回PHPとDBを叩いて生成され、攻撃者にとっては「やりがいのある」構成だ。セキュリティパッチの更新も頻繁で、更新のたびに表示が崩れるリスクと戦うことになる。 しかも、サーバーは常時PHPとMySQLを動かし、静的ページすらも“動的に”生成される。この構造のまま「表示速度」「安定性」「セキュリティ」をすべて満たすのは、もはや不可能に近い。 なお、CMS構成のこうした構造的リスクについては、以下の別記事にて、設計レベルから詳しく解説している。「なぜ管理画面が公開URLにあるのか?」「リアルタイム生成は本当に必要なのか?」といった素朴な疑問から、理想的な分離構成まで踏み込んで考察している。 CMSはなぜ脆弱なのか? よくある攻撃例と設計上の欠陥を解説 Markdown + SSG + CDNという現代的解 そこで注目されるのが、**SSG(Static Site Generator)**という選択肢だ。SSGはあらかじめ記事をHTMLとして生成し、CDNで配信する。PHPもMySQLも要らない。表示は爆速、攻撃対象はほぼゼロ、コストは無料同然。さらにMarkdownで記事を書くため、装飾ではなく中身に集中できる。Gitとの親和性も高く、生成AIによる支援(構成案→記事化→整形)との相性も抜群だ。 なお、MarkdownとSSGの組み合わせがもたらす執筆効率の高さについては、以下の別記事で詳しく紹介している。装飾に煩わされず、思考と構造に集中できる執筆体験を、ぜひ知ってほしい。 SSG×Markdownで発信が劇的にラクになる理由 「思考の邪魔」をしない執筆体験 WordPressのGUI操作は、Markdownに慣れた者にとっては“地獄”に近い。太字にするだけでもボタンをクリックし、装飾の見た目がテーマ依存で変わってしまう。構造化されていない文書は、生成AIによる解析にも向かない。コンテンツの中身ではなく、見た目に気を取られた時点で、知的生産としては遠回りなのだ。 一方、Markdownは構造が明快で再利用しやすく、AIにも優しい。文章の意味と構造が分離されているため、自動処理・変換・連携もやりやすい。まさに「考えることに集中できる」執筆環境であり、今後の情報発信の主軸となるにふさわしい。 SSGを使うという“設計思想” SSGは単なるツールではなく、「セキュリティ設計」「コスト設計」「執筆思想」すべてに関わる選択である。構造的に堅牢で、表示高速、拡張も容易。そして何より「攻撃されにくい」という安心感がある。WordPressのように「防衛し続ける構成」ではなく、そもそも「狙われない構成」を作るべき時代になった。 CMSに疲れたすべての人にこそ、SSGという選択肢を知ってほしい。いま、Web発信の構造は、大きく変わろうとしている。

2025年6月8日

ITパスポートは社会人が受けると恥ずかしいのか?

「ITパスポートを今さら受けるのって、正直ちょっと恥ずかしくないか?」 そんな気持ちを抱いたことがある人は、決して少なくないはずだ。この記事では、30代社会人としてITパスポートを受験した実体験をもとに、なぜそう感じるのか、そしてそれが本当に恥ずかしいことなのかを本音で語る。 「恥ずかしい」と感じる理由 ITパスポートは、IPA(情報処理推進機構)が実施する国家試験の中でも最も基礎的な資格である。情報系の学生や、IT未経験の新卒社員が入社前に取得するようなイメージが強く、社会人が受験することに「今さら感」や「場違い感」を抱きやすい。 実際、試験会場では高校生や大学生の姿が目立ち、30代の自分がひとりだけ浮いているような気がして、少し気恥ずかしさを覚えた。特にCBT方式では周囲との会話がなく、逆にその“無言の場違い感”がこたえることもあった。 それでも「受けてよかった」と思えた理由 それでもなお、受験してよかったと感じた。理由は主に3つある。 基礎が身についたという安心感 職場でIT用語が飛び交う中、「サーバ」「クラウド」「ガバナンス」などの基本語を自信を持って理解できるようになった。 次のステップへの道が見えた ITパスポートを足がかりに、情報セキュリティマネジメント、さらに応用情報技術者試験へと挑戦する道筋が描けた。 「行動した自分」を肯定できた 周囲の目よりも、何もしない自分のほうがよほど恥ずかしいと感じ、まずは小さな一歩を踏み出すことができた。 SNSや世間の声は気にするな インターネット上には「ITパスポートなんて高校生でも取れる」「履歴書に書いても意味ない」といった声も見られる。しかし、それはすでに知識を持っている人間の視点にすぎない。 初学者にとっては、「自分がどこまで分かっていないかを知る」ための基準点となるし、社会人として必要最低限のITリテラシーを証明する意味でも、十分に価値がある。 「恥ずかしさ」よりも「知らないまま」が恥ずかしい 本当に恥ずかしいのは、ITパスポート程度の知識もないまま、会議で「クラウドって何?」と聞き返すような状態である。職場での立場や年齢に関係なく、自ら学ぶ姿勢こそが評価される時代なのだ。 まとめ:恥ずかしいかどうかは、自分次第 実際に30代でITパスポート試験を受験した体験談をまとめた記事もある。得点や当日の雰囲気、その後の資格挑戦について記録してあるので、あわせて参考にしてほしい。 【30代・未経験からの挑戦】ITパスポート試験を受けた結果とその後 結論として、ITパスポートを受けること自体はまったく恥ずかしいことではない。むしろ「分からない自分を変えよう」と行動することのほうが、ずっと価値がある。 ITパスポートはあくまで“出発点”にすぎない。この小さな一歩が、キャリアやスキルの大きな転機につながることもあるだろう。 自分の未来を変える第一歩として、堂々と受験することを勧める。

2025年6月7日

エビデンスベースドは終わったのか? フェイクとAIが支配する時代の真理

かつて「エビデンスベースド(Evidence-Based)」は、社会の理想とされた。医療、教育、政策、経営、あらゆる分野で「証拠に基づく判断」が重要だとされ、科学的な裏付けによる意思決定が広がりを見せた。 しかし現在、私たちはその理想とまったく逆の方向に進んでいるように見える。フェイクニュースが蔓延し、AIは堂々とそれっぽい嘘を紡ぎ出す。「何を信じればいいのか分からない」時代において、エビデンスベースドという思想は力を失ってしまったのだろうか? 時系列で見る:希望から崩壊までの20年 年代 出来事 概要 1990年代末〜2000年代初頭 Evidence-Based Medicine(EBM)が医療で定着 医療分野で科学的根拠に基づいた診療が導入される 2010年代 EBPM(Evidence-Based Policy Making)が拡大 教育・行政などにも証拠重視の姿勢が広がる 2016年 フェイクニュース元年 トランプ当選/Brexit。SNSでの情報拡散により、嘘が真実を上回る影響力を持った 2022年〜 AIハルシネーション問題が顕在化 ChatGPTなどのLLMがもっともらしい嘘を自然に出力し始める 2025年現在 情報の信頼性が失われつつある SNS・生成AI・検索がノイズまみれに。個人が真偽を見抜く力を試されている なぜエビデンスベースドは広まらなかったのか? 手間がかかる:情報を集め、根拠を吟味する作業は面倒である 専門性が求められる:統計や研究手法の理解が前提となる 誤用される:「都合の良い論文だけを引く」ような形式主義が横行 大衆に届かない:感情や直感の方が遥かに人間の判断を左右する 悪貨が良貨を駆逐する:「それっぽく見えるだけの情報」が支持されやすい ハルシネーションとフェイクの時代にこそ必要なもの 確かに、AIはハルシネーションを起こす。SNSは嘘を爆速で拡散する。検索結果は広告とSEOで歪められ、信頼できる情報にたどり着くのが困難になった。 だが、だからこそ、「証拠を確認する」「出典を見る」「確からしさを吟味する」姿勢=エビデンスベースドの態度が不可欠である。 ChatGPTであっても、「なぜそう答えたのか?」「根拠はあるか?」と問いかければ、精度は上がる。問いの側がエビデンスベースドでなければ、答えはいつまでもノイズにまみれたままである。 結論:エビデンスベースドは思想ではなく、生存戦略である エビデンスベースドは単なる流行でも、方法論でもない。これは「情報があふれ、嘘が標準になりかけている世界」で生き残るための行動原理である。 「信じたいものを信じる」ことは簡単だ。しかし、それでは操作される。 いま一度、自らが問う力、見極める力、確かめる姿勢を取り戻すべきではないか。 エビデンスベースドは終わっていない。むしろ、今ようやく、その真の必要性が見え始めたのだ。

2025年6月6日