ロジカルシンキング手法は万能ではない:戦略フレームワークとの適切な使い分け

PDCA、SWOT、4P、DMAIC……。 こうした戦略フレームワークを使う場面では、必ずといっていいほど「ロジカルシンキング手法」とのセット運用が求められる。だが、誤解も多い。ピラミッドストラクチャーやMECE、ロジックツリーなどを、まるでそれ自体がフレームワークかのように扱い、過剰に神格化してしまうケースだ。 ロジカル手法とは、あくまで「構造化の補助ツール」に過ぎない。目的に応じて、フレームワークの中に適切に挿入することで初めて効果を発揮する。 手法一覧:それぞれの得意分野を押さえる 代表的なロジカルシンキング手法には以下のようなものがある。 ピラミッドストラクチャー:トップダウン型の整理法で、結論と根拠を明確に伝える構成。文章やプレゼン向き。 MECE:モレなくダブりなく。列挙や分類作業に最適で、SWOT分析のS/W要素やターゲット分解に力を発揮する。 ロジックツリー:ボトムアップで原因や解決策を分解。DMAICのAnalyze段階など、問題解決の骨格として有効。 Why-So/So-What:論理の妥当性を検証するための問いかけ。KPI設計や論点の深掘りで活用される。 PREP法:結論→理由→具体例→再結論、という説得力ある文章構成。発信や販売促進文に強い。 これらの手法を「道具」と捉え、それぞれの得意場面で使い分けることがポイントとなる。 フレームワークとの相性を可視化する ロジカル手法は、それ単体で完結するものではない。戦略フレームワークとの「相性」を踏まえて活用する必要がある。 たとえばピラミッド構造は4Pの中でもProductやPromotionの訴求設計で威力を発揮する。また、Why-So/So-WhatはPDCAのKPI設計やDMAICでの根拠検証において強い。 以下のようなマッピングを押さえることで、混乱や誤用を防げる: MECE → SWOT(列挙)やSTP(分類)に◎ ロジックツリー → DMAIC(原因分解)に◎ PREP法 → ブログやプロモーションに◎ 目的が不明瞭なまま、ただ「ロジカルに書こう」としてピラミッド構造を押し込めば、内容が空疎になる危険すらある。 業務改善や情報発信での今後の活用 このようなロジカル手法は、業務文書の作成や情報発信にも有効である。ただし「常に使うべき」とは限らない。重要なのは、使う目的と場面を明確にし、道具として柔軟に扱うことだ。 今後、実際のPDCAサイクルやDMAIC運用の中で、どの手法がどのように効果を発揮したかを記録として残しておくと、形式知として活用しやすくなるだろう。 繰り返し使用し、有効性が確認されたものについては、ナレッジとして整理・共有していくことが望ましい。 ロジカルシンキング手法を万能薬と誤解してはならない。 フレームワークと組み合わせたときにこそ、その力が発揮される。

2025年7月16日

アナロジーは諸刃の剣──その効果と限界を見極める

アナロジーは諸刃の剣──その効果と限界を見極める 私たちは、複雑なものを理解しようとするとき、しばしば身近な事例に置き換えて考える。そのようなときに登場するのが「アナロジー(類推)」という思考手法だ。「電流は水の流れのようなもの」「CPUは工場の司令塔」といったたとえは、専門知識のない者にも直感的な理解をもたらす。 しかし、アナロジーには“副作用”もある。便利であるがゆえに、その構造的な落とし穴に気づきにくい。本稿では、アナロジーの効用と限界を両面から整理し、その賢い使い方を考察する。 アナロジーの4つの効果 1. 直感的な理解を促す アナロジーの最大の魅力は、複雑な対象を既知の枠組みに乗せて語れる点にある。初学者が抱く抽象的な概念への抵抗をやわらげ、理解への足掛かりとなる。 2. 記憶に残りやすい たとえ話は印象に残りやすく、再学習時の“フック”として機能する。エピソード記憶と結びつくことで、長期記憶への定着も助ける。 3. 創造的な発想を促す 異分野の知識を接続する跳躍のきっかけにもなる。バイオミメティクスのように、生物に学ぶ工学的発想もアナロジーの産物だ。 4. 共通の言語をつくる 異なる専門分野や立場の者が共通のイメージを持つための“翻訳装置”として機能する。とくにKMSのような知識共有の場面では、この点は見逃せない。 アナロジーの限界とリスク いくら便利でも、アナロジーは万能ではない。適用を誤ると、むしろ誤解や判断ミスの原因となる。 1. 表層的な類似に惑わされる 構造的に異なるものを、見た目の似た点だけで類推すると、致命的な誤解を招く。たとえば「会社は生き物だ」という表現は、比喩としては面白いが、ガバナンスや責任の所在をあいまいにしかねない。 2. “わかった気”になる錯覚 アナロジーがうまくはまりすぎると、そこで思考が停止する。「理解したつもり」で終わり、肝心の内部構造や仕組みに踏み込まなくなる。 3. 制度輸入の誤用 他国の制度を「似た国だから」という理由で安易に導入すると、文化・歴史・前提条件の違いから失敗する。教育制度や税制のように構造的な要素が絡むものほど、この落とし穴は深い。 4. 生成AIによる安直なたとえ話 ChatGPTのようなAIは、親しみやすいアナロジーを生成するが、論理的な整合性を欠く場合も多い。出力された内容を無批判に受け入れるのではなく、常に検証する態度が求められる。 賢いアナロジーの使い方 アナロジーは理解の“導入装置”としては有効だが、それ自体を最終目的にしてはならない。重要なのは、「どこが似ていて、どこが違うのか」を明示することである。アナロジーを使用する際は注釈や補足を忘れてはならない。過剰な簡略化やたとえ話の乱用は、かえって誤解を助長する。 結語──アナロジーとの距離感 アナロジーは、複雑な情報にアクセスするための“梯子”として有用である。しかし、梯子を登ったあとは、地に足の着いた論理や構造理解へと進むべきだ。たとえ話に酔わされず、「それは本質を正しく捉えているか?」と問う目を持つこと。情報が洪水のように流れる現代において、この視点は以前にも増して重要である。 アナロジーは強力な道具であるが、盲信すれば思考を鈍らせる。その二面性を理解したうえで、適切な距離感を持って活用することが、真に意味のある思考や説明を可能にするのである。

2025年7月7日

オープンデータってどうなった?――流行のその後と、公共×企業の新しい関係

はじめに:かつて「オープンデータ」が熱かった 2010年代前半、「オープンデータ」という言葉が一躍注目を集めた。政府や自治体が保有する各種データ(地図、統計、施設情報など)を、誰でも使えるよう機械可読な形式で公開し、透明性・利便性・イノベーションを高めるという構想だった。 当時は「トイレの位置」や「AED設置場所」までもがオープンデータ化され、オープンデータポータルやマップアプリが乱立した。しかし、最近では「オープンデータ」という言葉自体、あまり耳にしなくなった。 いったい何が起きたのか? なぜブームは沈静化したのか? 書式の不統一:構造化が崩れた 各自治体でカラム名・表記がバラバラ(“lat”, “緯度”, “latitude"など) 同じ項目でも情報粒度や定義が統一されていない 更新停止とリンク切れ:静的データの限界 自治体の異動や業務負荷により、データの更新が途絶える 形式的にExcelをアップして終わり → 時間とともに陳腐化 民間サービスの勝利:使われないオープンデータ Google Maps、Yahoo天気、鉄道アプリなどが高品質すぎて出番がない 結局、使われるのは便利な民間サービスだけ それでも「中身」は死んでいない 国のポータル(data.go.jp)は今も稼働 災害・防災系のデータ(避難所、ハザードマップ)は活用中 アカデミック用途や一部の市民アプリには一定のニーズがある さらに、SDGs文脈では目標16(平和と公正)や目標11(住みやすいまちづくり)と深く関わる。 陳腐化を防ぐ条件:三位一体の実現 すべての自治体が賛同し、書式が同じで、今後も更新される この3点が揃わなければ、どんなに立派なデータでもすぐに使い物にならなくなる。 公開範囲が偏る → 全国対応できない 書式がバラバラ → 統合・活用が困難 更新されない → 情報が信用されなくなる 解決策:公共×企業の新しい共創モデルへ いまや、自治体だけでオープンデータを成立させるのは不可能。解決の鍵は、**「倫理的に差別化すべきでない情報」**から協力のスキームを作ることだ。 ステージ1:倫理的に非公開は許されない情報 AEDの位置 避難所 災害時の通行規制 → 人命に関わる情報は、企業・自治体ともに協力しやすい ステージ2:倫理的義務はないが、競争優位にならない情報 トイレの位置 喫煙所や駐輪場 フリーWi-Fiの場所 → 「別に公開しても損じゃない」情報から広げる ステージ3:社会的価値が高く、収益とは無関係な情報 バリアフリー情報 授乳室・補助犬の受け入れ可否 → 公共福祉に資するが、競合差別化には直結しない オープンデータは「倫理×無関心×合理性」で再構築される 最初は「倫理的にやるべき」から始まり 次に「まあ公開してもいいか」になり 最後に「むしろ出したほうが利便性・評価が高い」になる これが、**「非ゼロ和の情報共有経済圏」**のあり方であり、企業が巻き込まれるべき領域である。 生成AI時代の希望:構造のズレを吸収する力 構造の不統一をAIで補正 自治体ごとのバラバラなCSVを共通スキーマに変換 リンク切れや非更新を検出・アーカイブ AIが支える「見えない地味な整備力」が、今後のオープンデータ再興に寄与する。 結び:情報を競争から解放するという思想 情報には「競争させるべきもの」と「協力すべきもの」がある。 これを見極め、前者は民間が競争し、後者は公共×企業で共有する。オープンデータはその後者の象徴であり、今こそ再評価すべき時に来ている。 ...

2025年6月13日

逃げ切った団塊世代、報われない氷河期、支払わされるゆとり以下──世代責任の構造

逃げ切った団塊世代、報われない氷河期、支払わされるゆとり以下──世代責任の構造 “氷河期世代はかわいそう”──そう語られるたびに、どこか釈然としない思いが残る。 たしかに、彼らは制度の谷間に落とされた被害者だった。だが、その構造を生み出し、是正せず、結果としてツケを下の世代に回したのは誰だったのか? 逃げ切った団塊世代、報われない氷河期世代、そしてそのコストを支払わされるゆとり以下。 世代間の責任構造は、いまや“支援”の名を借りて、さらなる歪みをもたらしている。 本記事では、世代ごとの制度的立場と構造的損失の継承を読み解き、誰が本当に責任を取るべきだったのかを問い直す。 はじめに ここ数年、「就職氷河期世代の救済」という言葉が突如として政策の場で語られるようになった。だが、その違和感は拭えない。就職氷河期とは1990年代後半から2000年代初頭にかけて、バブル崩壊後の極端な就職難に直面した世代だ。なぜ今さら? なぜ20年以上も放置された世代が、今になって「支援の対象」になっているのか。 その背景には、冷徹な政治的現実がある。すなわち、団塊世代という巨大な票田が高齢化によって政治的影響力を失いつつあり、次に無視できないボリュームゾーンとして浮上したのが就職氷河期世代だった、という構図だ。政治家が彼らを支援対象とし始めたのは、理念や倫理からではなく、選挙戦略上の“合理”に過ぎない。 さらに掘り下げると、見えてくるのは「責任を取るべきだった世代の静かな退場」と「未来世代への負担転嫁」という二重構造である。本記事では、その構造的すり替えの全体像を明らかにしていく。 団塊世代が責任を取らなかった構造 団塊の世代は、就職氷河期世代が社会に出る頃、企業や官僚機構の中枢を担っていた。人員削減、正規雇用の抑制、新卒偏重主義の温存、非正規雇用の拡大といった方針を決め、実行したのもこの世代だった。 本来であれば、能力のある氷河期世代が正社員として登用され、団塊世代は徐々に退場していくのが健全な世代交代だった。だが現実には、団塊世代はポストを死守し、自らの退職時期まで雇用や昇進の道を閉ざし続けた。 この世代がまだ現役だった時期に氷河期救済を語れば、その責任は彼らに直撃する。また、正社員ポストの多くを若い世代に譲る必要もあった。だからこそ、団塊世代は消極的に、あるいは積極的に、氷河期支援の世論形成を回避し続けたのではないか。そうした仮説は、現実の政治とメディアの沈黙から見ても、あながち否定できない。 そして定年を迎えた今、彼らは現役を退いた。責任を問われることなく、社会保障の受給者として「逃げ切った」のである。こうして、氷河期世代の救済が語られ始めたのは、団塊世代が「責任を取らなくて済む立場になってから」だ。 氷河期世代の固定化と手遅れの救済 20代・30代の再チャレンジ期を棒に振り、40代・50代で支援策がようやく立ち上がった氷河期世代。だが、それは「救済」というにはあまりに遅く、そして弱かった。職業訓練や正社員登用制度も整備されたが、年齢的・家庭的・身体的な制約から、活用できる人は限られた。 この世代は、正規雇用の実績も年金の納付履歴も薄く、将来は生活保護の申請者として社会保障財政を圧迫する可能性が高い。それにもかかわらず、社会的・制度的には「自己責任世代」として20年もの間、冷遇されてきた。 本来、氷河期世代を長期的な構造として正社員化し、雇用・年金・税収という形で国家財政に貢献してもらうべきだった。しかし団塊世代がそれを阻害し、構造としての格差を温存したことにより、日本社会は「安く雇えない非正規労働者」を量産し、将来の財政リスクを先送りする結果になった。 ゆとり世代以下が背負う三重の負担 この構造のツケを背負わされるのが、人口の少ないゆとり世代以下である。彼らは、次の三つの世代的コストを同時に背負わされている: 団塊世代(高齢層)の社会保障費 氷河期世代の再就職支援や生活保護 自身の子育て・教育費用 それでいて、若年層の可処分所得は減少し続け、将来設計の見通しも立たない。実質的には、40代で雇用の閉塞を迎え、終身雇用や年金の恩恵もほぼ期待できない“損な世代”である。 このような不公正な再分配構造が維持される限り、少子化が止まるはずがない。将来世代にとって「損な未来」しか見えないのであれば、生まない・結婚しないという選択は合理的ですらある。 救済するか、切り捨てるか――情ではなく計算で決めるべき もはや問題は倫理や情ではない。「就職氷河期世代を救済しないことで、増える生活保護費と治安の悪化」というコストと、「救済のための政策実行コスト」のいずれが軽いか、という国家の会計上の判断である。 冷たいようだが、国家運営において「誰を切り捨てるか」を決めなければ、全員が沈むことになる。就職氷河期世代を救済することが国家全体の持続可能性を高めるのであれば、それは“情”ではなく“投資”と見なされるべきである。逆に、無理に救って将来世代に重荷を背負わせるならば、それもまた「未来の破壊」につながる。 結論 就職氷河期世代を巡る議論は、もはや“かわいそうだから支援しよう”というレベルを超えている。社会全体の制度設計の問題であり、次世代にどれだけのツケを回すかという政治的・財政的な問題だ。 だが忘れてはならないのは、この構造を招いたのは団塊世代であるという事実だ。彼らは決定権を握り、恩恵を受け、最後には責任を取らずに逃げ切った。 であれば、そのツケの一部を、今なお資産や年金という形で守られている団塊世代に支払わせるという選択肢も、本来検討されるべきである。少なくとも、すべてのコストを未来世代や氷河期世代に押しつけるのは、道義的にも制度設計上も持続可能ではない。 “誰が責任を取るべきか”という視点を欠いたまま「支援」だけが語られるならば、それはまた新たな不公正の温床となる。

2025年5月22日

現代の「三方良し」は、どこまでの範囲を指すべきか

現代の「三方良し」は、どこまでの範囲を指すべきか はじめに 「三方良し」という言葉を、学生時代に小説を通して知った。「売り手良し・買い手良し・世間良し」。近江商人の理念として有名なこの言葉に、私は当時「昔の商売人は、先進的で倫理的な発想をしていたんだな」と感銘を受けた。 だが、現代においてこの「三方良し」、とりわけ「世間良し」という要素が、逆に商売や活動の足を引っ張ってはいないだろうか?本記事では、「世間良し」の“世間”とは一体どこまでを指すべきなのか、現代的な視点で考えてみたい。 世間が“無限”になった時代 私の主張はシンプルだ。インターネットによって「世間」が過剰に拡張されてしまった現代においては、「世間良し」の“世間”を、本来の「売り手と買い手の取引に影響がある近隣の人々」までに制限するべきだということである。 江戸時代の近江商人が想定していた「世間」は、せいぜい町内や同業者、常連顧客といった範囲だったはずだ。ところが現代では、まったく無関係な他県・他国のSNSユーザーの声すら「世間の声」として扱われてしまう。これが問題の根本だ。 炎上事例に見る“拡張された世間”の危険 この現象を象徴する事例は枚挙にいとまがない。たとえば、とある観光地が地域活性化の一環としてマスコットキャラクターを作成した。観光客も地元住民も、そのキャラクターに対して否定的な反応はほとんどなく、多くは好意的か、少なくとも無関心だった。 しかし、まったくその土地に縁もゆかりもない、訪れたこともない、訪れる気もない一部の“外部の人”がSNSで「スカートが短くて性的だ!」と批判を展開。すると炎上が拡大し、観光地はその企画を中止。予定されていたイベントも取り止め、大きな経済的損害を被った。 このような例は、単なる極論ではなく、実際に何度も繰り返されている。ここで問いたいのは、「その“批判者”は、本当に“世間”なのか?」ということだ。 本来の「世間良し」とは何か? 三方良しにおける「世間良し」は、「その取引が社会的に調和しているか」「周囲との摩擦がないか」といった意味合いであり、「無関係な誰かにまで配慮せよ」という意味ではなかったはずだ。 現代の問題は、「世間の声」が無制限に拡張され、しかも声の大きいごく一部の主張が“正義”として扱われてしまう点にある。これは結果として、地元に利益をもたらすプロジェクトや、合意形成された取引を潰してしまう危険すら孕んでいる。 三方良しと「第4の存在」──外野という概念 ここで私は、三方良しの外にもう一つの存在、**外野(がいや)**を提唱したい。売り手でも買い手でもなく、そして当該地域や当事者と何ら関係性を持たない無関係な人々。にもかかわらず、SNSという megaphone(拡声器)を通じて過剰な干渉を試みる存在たち。 この外野は、もはや三方良しの範囲に含まれるべきではない。三方良しを「四方良し」に拡大し、外野までも満足させようとすれば、それは不可能な全方位配慮に陥り、萎縮と自己検閲だけが残る社会になる。 外野の声が影響力を持つ時代だからこそ、私たちはあえて「誰を“世間”とみなすのか」を限定的に再定義しなければならない。 おわりに:三方良しを“四方良し”にしないために 現代の三方良しは、慎重に再定義されるべきだ。「売り手良し・買い手良し・世間良し」とは、関係する当事者とその周囲の生活圏に実質的影響を与える“実体的な世間”に限って考えるべきだろう。 インターネット時代において「全方位に気を使う商売」は、“三方良し”ではなく“四方良し”であり、この実現は非常に難しい。四方良しを目指した結果、萎縮した社会になることを避けるためにも、私たちは「どの“世間”に良しとするか」をもっと意識的に選ばなければならない。 三方良しは、すべての声に従うことではない。「実際に関わる人に誠実であること」。それこそが、時代を超えて変わらぬ本質なのではないだろうか。

2025年5月19日

血液型性格診断の何が問題か|科学的誤謬と人権侵害の視点から

血液型性格診断の何が問題か|科学的誤謬と人権侵害の視点から はじめに 日本では根強い人気を誇る「血液型性格診断」。A型は几帳面、B型はマイペース、O型はおおらか、AB型は変わり者……。こうした分類が、テレビや雑誌、日常会話の中で当たり前のように流通している。 しかし、この「なんとなく当たってる気がする」診断は、科学的にも倫理的にも非常に問題がある文化である。本記事では、その問題点を「科学的根拠の欠如」と「人権侵害の構造」という2つの観点から掘り下げていく。 1. 科学的根拠のない分類:血液型と性格に相関はない 複数の心理学的研究により、血液型と性格の相関関係は統計的に認められないことが繰り返し示されている。 にもかかわらず、「A型だから神経質」といったイメージだけが一人歩きしている。 これは、バーナム効果(誰にでも当てはまる記述を自分に当てはまると感じる心理効果)による錯覚に過ぎない。 2. 「血液型性格診断」はステレオタイプを助長する 血液型は本人の意思で選べない属性である。 それに基づいて性格をラベリングするのは、人種・性別・性的指向などで性格や能力を決めつけるのと同じ構造である。 「B型は自己中だから付き合いたくない」といった言動は、立派な差別行為である。 3. 「会話のきっかけになるからいいじゃん」は詭弁である 「ネタだからいい」「会話が弾むからいい」という意見がある。 しかしそれは、「LGBTをネタにすると盛り上がるからOK」「出身地いじりが面白いからOK」と主張するのと同じである。 “無邪気な差別”は、むしろ最も根深く有害である。 4. 科学的で非差別的な診断ツールはすでに存在する ビッグファイブ理論やFFS理論など、統計的に裏付けられた性格特性診断はすでに存在している。こうしたツールは、再現性や信頼性があり、ラベリングによる偏見を生まない設計になっている。にもかかわらず、血液型診断にすがるのは知的怠慢と言える。 ビッグファイブ (心理学) -Wikipedia FFS理論で学ぶ「指導すればするほど、やる気をなくす部下」のトリセツ 5. 結論:血液型性格診断は、科学にも人権にも反する文化である 血液型性格診断は、科学的に誤りであるだけでなく、他者を「分類しラベリングする」ことでステレオタイプを助長する有害な文化である。しかもそれを「会話のきっかけになるから」と正当化するのは、性別・性的指向・民族をネタにする悪習を無自覚に再生産しているに過ぎない。 これは“無邪気な暴力”であり、知的にも倫理的にも容認できない。 補足:「唾液型」など他の体液に“型”があるのに血液型だけ注目されるのはなぜか 実は、唾液にも「分泌型/非分泌型」という分類があり、血液型と同じ抗原が唾液に出るか否かが決まっている。 しかし世間で注目されないのは、わかりやすさ・露出頻度・歴史的経緯の違いによるものである。 「血液型だけを性格に結びつける」のは、科学的選択というよりも文化的偏見の産物である。

2025年5月17日

なぜ今、ブログにサイドバーが消えつつあるのか|小説消費との意外な共通点

なぜ今、ブログにサイドバーが消えつつあるのか|小説消費との意外な共通点 かつて、ブログといえばサイドバーが定番だった。カテゴリ、人気記事、タグクラウド、月別アーカイブ……読み手は気になったブログを見つけたら、作者の他の記事を「読み漁る」文化があった。小説の世界でも同様で、気に入った作家を見つけたら、その人の他の作品も読んでみようと思うのが普通だった。 だが、今は違う。ふと気がついた。静的サイトジェネレーター(SSG)で人気のテーマをいくつか見ていたところ、どれもサイドバーがない、もしくは最小限しかない。おや?と思った。 その直後、10年ほど前に小説家が語っていた話を思い出した。「昔は作家買いをしてくれる読者が多かったのに、今は“バズった1作品だけ読まれて、他のシリーズには手が伸びない”。」 この2つは、別の現象ではない。読者行動が“全体を見る”から“単体消費”に変わったのだ。 読者は「読み漁り」から「単体消費」へ 昔(〜2010年代前半) 好きになったブログや作家の他の作品も読む サイトを「回遊」して楽しむ サイドバーはそのための道標だった 今(2020年代) SNSや検索でたまたま見つけた“1記事だけ”を消費 他の記事や作品を追いかけない サイドバーが減ったのは、それがあまり使われなくなったからだ Webと小説の共通点:バズった1本主義 この傾向はブログに限らない。Web小説、ラノベ、Z世代の情報消費すべてに共通している。 SNSで話題になった「1冊だけ」が読まれる 作家名は覚えられない。シリーズものは続かない 読者は“その瞬間の満足”だけを求めている 北海道大学の「ゼロ年代の情報行動の変容」や、沖縄国際大学の学報『羅針盤』でも、こうした読者行動の変化は観察されている。今の消費行動は「広く・浅く・瞬間的」であり、過去のように「作者を追いかける」スタイルは主流ではなくなっている。 では、設計はどう変えるべきか? サイドバーはあえて最小限にする 目次(TOC)だけで十分。記事に集中してもらう 回遊してほしいなら、記事の文中や末尾に自然な導線を仕込む 読み漁り型の読者にも対応する 記事が増えたら、「リンク集」や「このブログの読み方」ページを用意 タグやカテゴリは読者よりも自分のための構造整理と割り切る 読者行動の変化を、設計にどう活かすか ネットを長く使ってきた人ほど、サイドバーがないと違和感を覚えるかもしれない。それでも、時代は変わり、読み方も変わった。 今の読者は、1記事を読んだらすぐ離れていく。でもその1記事の中で「次の導線」が自然にあれば、ふとクリックしてくれることもある。読者が変わったなら、こちらの設計も変えていくしかない。 かつての読み漁り文化を懐かしむ気持ちを持ちつつ、今の単体消費型の行動様式にどう向き合うか。この変化を受け入れた上で、どんな情報設計をすれば伝わるのか。それを考えること自体が、ネットの読み手・書き手にとって価値ある営みだと思う。 昔の「読み漁り」も、今の「単体消費」も、それぞれの時代に合った読み方。 重要なのは、それに気づき、記録し、活かすことだ。 設計は、観察と気づきから始まる。

2025年5月14日

常識で問題を解くことの危うさ

常識で問題を解くことの危うさ 資格試験の勉強法を紹介する本やブログで、時折見かけるアドバイスがある。 「この問題は常識で解ける。だから学習の優先度は低い」 この種のアドバイスは、一見すると合理的に見える。だが、その裏には大きな落とし穴がある。 「常識で解ける問題=学ばなくていい」は本当か? たしかに、勉強が苦手な人にとって、すべての問題を一から丁寧に理解するのはハードルが高い。その意味では、「常識で解けるなら、そこは飛ばしてもいい」というアドバイスが成り立つこともある。だが、それはあくまで初心者向け、もしくは「資格を持ってさえいればよい」「内容はぶっちゃけどうでもいい」と考えている人向けの話だ。 専門性を求めたり、学んだことを実務で生かしたいと考えるならば、「常識だから」という理由で学びを止めてしまうのは、非常に危うい態度だと言わざるを得ない。 常識という言葉の曖昧さと危うさ そもそも「常識」という言葉自体が危うい。技術者や専門職であれば、この言葉を安易に使うことのリスクを理解しているはずだ。なぜなら、組織とは多様なバックボーンを持った人間の集まりだからだ。メーカーであれば、機械出身、電気出身、情報出身、化学出身、材料出身など、さまざまな専門家が同じ職場で働いている。 たとえば、「金属組織なんて見分けがついて当然でしょ?」「強電・弱電という言葉も知らないの?」といった発言が、同じ分野出身者同士の会話であれば通用するかもしれない。しかし、異分野の人間に対してそれを求めるのは酷であり、非合理的でもある。 新たな分野を学ぶとは、常識を捨てること 本質的に、学習とは「常識の殻を破る」行為である。自分が持っていた先入観をいったん脇に置き、その分野における新たなスキーム、ルール、論拠を丁寧に学び取ることこそが、学習の本質だ。 にもかかわらず、「これは常識でA!」→「解答を見たら正解してた」→「はい、もうこの問題は解かなくていい」という態度で学びを進めると、一体何のために学習しているのかがわからなくなる。そんな態度で合格できたとしても、それは単なる“試験対策の通過”でしかない。 たとえば宅建の民法でよくあるのが、「先に買った人がかわいそうだから、その人が所有権を得るべき」という“常識”で答えてしまい、登記の対抗要件を無視して誤答するケースだ。実際には、**不動産の権利移転は登記がなければ第三者に対抗できない(民法第177条)**という明確なルールがある。 こうした例では、「常識で答えられたからOK」としてしまうことで、肝心の知識の獲得を避けてしまう点にある。 常識を捨て、論拠に立脚する 学習において大事なのは、論拠を求める態度である。その分野における原理・法則を理解し、細かな条件設定や例外に対しても、適切な判断ができるようになること。それが本来の学びであり、実務や応用の場面でこそ生きてくる。 「常識」という名のアナロジーに頼っているうちは、実は何一つ理解していないに等しい。なぜなら、論拠に基づいた推論ではなく、自分の経験やイメージに頼った“勘”で解いているにすぎないからだ。 さらに言えば、学習を始める前の段階の人(=一般の人)が、「これは常識でしょ」と豪語し、問題を解けたつもりになってしまう場合、それは将来的に極めて危険な兆候である。なぜなら、もしその人がそのまま専門家として開業した場合、「一般の人」と同じレベルの判断しか下せないことになる。そんな専門家が本当に社会に必要だろうか? それこそ、生成AIやルールベースの自動化に簡単に置き換えられる人材ではないだろうか? まとめ:理解の深度こそが武器になる 常識で解けたとしても、それがなぜ正解なのかを考えること。その積み重ねこそが、専門家としての地力を育てる。 「常識で解けるから飛ばしていい」という言葉を見たときは、それが誰に向けた言葉かを考えたい。そして、自分が本当に目指しているものは“合格”か“理解”か、自分自身に問い直すことから始めてみてほしい。

2025年5月11日