🛠️工学×⚖️法学 Tecklaw Notes
筆者は機械系出身ながら、法律・電気・情報と、理と文をまたぐ知的旅を楽しんでいます。
技術と制度の接点、思索と実践の往復を通じて、知の地図を描いていきます。
ブログを運営する中で、独自ドメインを取得・運用している。その過程でふと気になったのが、「このドメインは将来、相続の対象になるのか?」「資産として課税される可能性があるのか?」という問いだった。この記事では、現時点の状況と将来的な制度の変化について考察する。 ドメインの現在地──まだ“資産”ではない 2025年現在、ドメインは法律上「相続財産」として明確に定義されているわけではない。Whois情報を変更すれば形式的には譲渡可能であり、相続時にも無償で名義変更されるケースが多い。 ただし、現実にはvoice.comのように数億円単位で取引された事例も存在し、一定の経済的価値があることは否定できない。にもかかわらず、税務上はその価値を評価するルールが整っていないのが現状である。 予測される未来──ドメインは“デジタル不動産”になるか? 1. 相続財産としての認定 今後、著名ワードや短い文字列、高トラフィックを持つドメインが、相続財産に含まれるのは時間の問題だろう。たとえば「祖父の代に取得した家業ドメイン」が「デジタル家系資産」として扱われる未来が来るかもしれない。 2. ドメイン地主と“地代”モデル ブランド性の高いドメインを、企業が賃借して使う「ドメイン地主化」も現実味を帯びてきた。すでに商用利用においてドメイン貸与ビジネスは存在しており、「ドメイン代」は将来的に“地代”のような存在になる可能性がある。 3. 税制上の課題と整備 ドメインに経済的価値があることが社会的に認知されれば、相続税や法人税の対象として制度整備が進むだろう。数十年後には、現行の「評価不能」という前提が崩れると予想される。 4. 法制度との交錯──不正競争防止法と民法の衝突 現行では、著名企業名を含むドメインの第三者取得に対し、不正競争防止法が適用されることもある。しかし、今後ドメインが「登記財産」に近い存在と見なされれば、「先に正当取得した者が保護される」流れが強まるだろう。 結果として、企業によるドメイン回収請求が「後出しの財産権侵害」として退けられるケースも増えるかもしれない。 現時点での対応──今できることは何か 筆者は、すでにいくつかの価値ある独自ドメインを保有しており、以下のような対応を取っている: Whois情報やレジストラアカウントを明確に管理 所有ドメイン一覧を記録・棚卸 他者への譲渡や貸与を前提とした契約・名義変更の手順を文書化 これらは、ドメインを“資産”と位置づけるうえで、重要な備えとなる。 おわりに──ドメインは現代の「表札」である ドメインとは単なる技術的識別子ではない。ブランド、屋号、信用、事業の顔であり、時には個人のアイデンティティでもある。将来的に、ドメインは「家紋」や「土地」と並ぶ資産カテゴリーに分類される可能性が高い。 制度が整備される前に、自らの手で適切に取得・管理すること。それが、未来の“デジタル地主”としての第一歩である。
アナロジーは諸刃の剣──その効果と限界を見極める 私たちは、複雑なものを理解しようとするとき、しばしば身近な事例に置き換えて考える。そのようなときに登場するのが「アナロジー(類推)」という思考手法だ。「電流は水の流れのようなもの」「CPUは工場の司令塔」といったたとえは、専門知識のない者にも直感的な理解をもたらす。 しかし、アナロジーには“副作用”もある。便利であるがゆえに、その構造的な落とし穴に気づきにくい。本稿では、アナロジーの効用と限界を両面から整理し、その賢い使い方を考察する。 アナロジーの4つの効果 1. 直感的な理解を促す アナロジーの最大の魅力は、複雑な対象を既知の枠組みに乗せて語れる点にある。初学者が抱く抽象的な概念への抵抗をやわらげ、理解への足掛かりとなる。 2. 記憶に残りやすい たとえ話は印象に残りやすく、再学習時の“フック”として機能する。エピソード記憶と結びつくことで、長期記憶への定着も助ける。 3. 創造的な発想を促す 異分野の知識を接続する跳躍のきっかけにもなる。バイオミメティクスのように、生物に学ぶ工学的発想もアナロジーの産物だ。 4. 共通の言語をつくる 異なる専門分野や立場の者が共通のイメージを持つための“翻訳装置”として機能する。とくにKMSのような知識共有の場面では、この点は見逃せない。 アナロジーの限界とリスク いくら便利でも、アナロジーは万能ではない。適用を誤ると、むしろ誤解や判断ミスの原因となる。 1. 表層的な類似に惑わされる 構造的に異なるものを、見た目の似た点だけで類推すると、致命的な誤解を招く。たとえば「会社は生き物だ」という表現は、比喩としては面白いが、ガバナンスや責任の所在をあいまいにしかねない。 2. “わかった気”になる錯覚 アナロジーがうまくはまりすぎると、そこで思考が停止する。「理解したつもり」で終わり、肝心の内部構造や仕組みに踏み込まなくなる。 3. 制度輸入の誤用 他国の制度を「似た国だから」という理由で安易に導入すると、文化・歴史・前提条件の違いから失敗する。教育制度や税制のように構造的な要素が絡むものほど、この落とし穴は深い。 4. 生成AIによる安直なたとえ話 ChatGPTのようなAIは、親しみやすいアナロジーを生成するが、論理的な整合性を欠く場合も多い。出力された内容を無批判に受け入れるのではなく、常に検証する態度が求められる。 賢いアナロジーの使い方 アナロジーは理解の“導入装置”としては有効だが、それ自体を最終目的にしてはならない。重要なのは、「どこが似ていて、どこが違うのか」を明示することである。アナロジーを使用する際は注釈や補足を忘れてはならない。過剰な簡略化やたとえ話の乱用は、かえって誤解を助長する。 結語──アナロジーとの距離感 アナロジーは、複雑な情報にアクセスするための“梯子”として有用である。しかし、梯子を登ったあとは、地に足の着いた論理や構造理解へと進むべきだ。たとえ話に酔わされず、「それは本質を正しく捉えているか?」と問う目を持つこと。情報が洪水のように流れる現代において、この視点は以前にも増して重要である。 アナロジーは強力な道具であるが、盲信すれば思考を鈍らせる。その二面性を理解したうえで、適切な距離感を持って活用することが、真に意味のある思考や説明を可能にするのである。
ブログ運営において「Google Analytics(GA)」を活用している人は多い。しかし、それは本当に必要な分析なのだろうか? GAは確かに高機能だ。ユーザーがどこから来て、どのページを見て、どれくらい滞在したか──そうした詳細なデータが得られる。でも、それはラーメン屋にたとえれば、「客がどこに座って、どこを見て、どんな順番でメニューを眺めたか」くらいの話でしかない。 それよりも重要なのは、もっとシンプルなことだ。「何人が来たのか?」「ラーメンを美味いと思ってくれたのか?」「また来てくれたか?」──つまりGSC(Google Search Console)を見るべきだという話だ。 ラーメン屋の例で考えるWeb分析 たとえば、あなたがラーメン屋をやっているとしよう。 立地や看板が目立てば、お客は入ってくれる(=検索表示・クリック) ラーメンの味がよければリピーターになる(=記事の中身) メニュー表の配置や目線誘導も多少は効果がある(=内部リンク・CTA) だが、個人でラーメン屋を経営しているなら、最初にやるべきことは明白だ。 ラーメンの味を改良する 新しいトッピングや限定メニューを試す SNSや口コミで認知度を上げる **「店に貼るポスターの位置を3cmずらすと、どのくらい注文が変わるか?」**なんて考えるのは、たぶん最後の話だ。それがGAでよくやられる「導線の最適化」「ボタンクリック率の比較」などに相当する。 見かけPV/クリック──シンプルで本質的な指標 私が考案した指標に「見かけPV/クリック」というものがある。 これは、 **クリック数(=検索から来た人数)**と PV(=全体のページビュー) を比較する、単純な比率だ。 この指標を見ると、以下のようなことが分かる: ブログがリピーターを獲得できているか? 記事同士の回遊性があるか? **見かけ上のPVの水増し(SNS・ブクマ)**が起きているか? GAで細かく滞在時間やセッション数を追うより、この1つの指標で「伸びているか・縮んでいるか」が感覚的に見えてくる。何より、操作が不要で、見るだけで意味が分かる。 GAで見えないもの──“失われた読者” GAの最大の弱点は、「いま訪れている人」しか見えないことだ。 昔は毎日見に来ていた人が、いつの間にか来なくなった 広告がうるさくて離脱した 1ページだけ見て満足し、もう訪れなくなった こうした「失われた読者」はGAには出てこない。GAが優れているのは事実だが、その優秀さゆえに、“いま目に見えるものしか分析対象にしない”という罠がある。 GSCなら、検索表示やクリック数の変動を通じて「以前より検索されなくなった」「CTRが落ちてきた」といった兆候がシンプルに見える。 本当に見るべきものは何か 「GAを使って動線を改善しよう」という言葉は、現代のブログ運営界隈では一種の呪文のように使われている。だが、“味が微妙なラーメン屋”が、ポスターの貼り方だけ工夫してもリピーターは増えない。 ブログも同じだ。コンテンツが良くなければ、どんな分析をしても虚しい。分析は必要だが、その順番を間違えてはいけない。 記事の質(味) 認知と検索流入(立地・看板) 内部リンクやデザイン(導線) 最後に広告や収益化(トッピング) これが自然な順番だ。 GSC中心主義のススメ 特に、個人ブログや小規模サイトの場合、分析は軽く・本質的に行うべきだ。GSCで表示回数とクリック数を見て、検索ワードに対してどんな記事が届いているかを知る。 そして「クリックした人が、何ページ読んでくれたか(=見かけPV/クリック)」を定期的に確認する。それだけで十分だ。分析が記事執筆の邪魔になってはいけない。 分析の罠にハマる前に、ラーメン屋を思い出してほしい。大切なのは、まずラーメンをもっと美味しくすることなのだから。
新型コロナウイルスの感染拡大が始まった2020年以降、日本中のトイレから姿を消したものがある──それがハンドドライヤーである。公共施設や駅、ショッピングモールの洗面所では、紙を使うか自然乾燥しか選べなくなった。 その理由は「飛沫を拡散させるから危険」というものだった。しかし、これは本当に正しかったのだろうか? 結論から言えば、明確な科学的根拠は存在しなかった。 ハンドドライヤー=危険というイメージの正体 ハンドドライヤーはその風圧によって、手の水分だけでなくウイルスや細菌を空中に飛ばすのではないかという懸念が広がった。特に“ジェット式”と呼ばれる高速風タイプは、「菌をまき散らす」というイメージが強かった。 ところが、ダイソンやパナソニックといったメーカーの実験や、複数の大学・医療機関の調査では、「飛沫感染を助長する明確な証拠はない」「むしろ手洗い後に十分乾燥させない方がリスク」とする結果が報告されている。 実は紙より衛生的? さらに、使い捨てのペーパータオルと比べても、ハンドドライヤーの方が接触がなく衛生的という指摘もある。ペーパータオルの設置器具や廃棄容器に触れることで、逆に再汚染が起きる可能性も否定できない。 また、ハンドドライヤーは使用のたびに清掃やフィルター交換がされる前提だが、ペーパー類は補充放置されたままになっていることも多い。 不安に基づく“自粛”のメカニズム それでも、なぜ全国的にハンドドライヤーは一斉に止められたのか? 「万が一」が許されない同調圧力 SNSで広がった「怖い」「菌が舞う」という印象 管理者側が“クレーム回避”を優先した判断 こうした科学ではなく“印象”と“空気”に従った決定が、制度として一気に広まったのである。 科学的な“正しさ”と社会的な“正しさ”のズレ 感染症対策は、科学的知見と社会的納得の両方が必要だ。しかし、「科学的に危険とは言えない」ことを社会が受け入れるには、非常に長い時間と教育が必要になる。 その間に取られる措置は、しばしば過剰防衛・形式的安心に傾きがちであり、今回のハンドドライヤー自粛はまさにその典型例である。 まとめ:不安は理解する、だがそれだけでは足りない 誰もが最善を尽くそうとした結果の自粛であることは否定できない。だが、一度広まった不安に基づくマナーやルールは、科学が否定してもなかなか戻らない。 私たちはこれからの感染対策において、「印象」ではなく「検証された事実」に基づく判断を重ねていく必要がある。その第一歩は、“正しさ”を疑うところから始まるのかもしれない。 こうしたマナーと科学のすれ違いは他にも存在する。関心のある方は以下のまとめ記事を参照して欲しい。 「それ、本当に正しいのか?」──マナーと科学のすれ違い8選
「良かれと思ってやっていた」行動が、実は── 駅やショッピングモールなどで、エスカレーターの片側を空けて立つ──多くの人が「急ぐ人のためのマナー」として自然に実践している光景だろう。しかしこのマナー、エスカレーターの設計思想と完全に逆行していることをご存知だろうか? 設計者にとっては“やめてほしい”使用法 エスカレーターは、本来「両側に人が立って使用する」ことを前提に設計されている。つまり、片側だけに荷重がかかることは想定されていないのだ。 片側空けによる偏荷重が続くと、次のような問題が発生する: 段差部の偏摩耗:片方のステップばかりが擦り減る チェーンへの負担増:歪みが生じやすくなり、メンテナンス頻度も増加 寿命短縮:設計寿命より早く故障・交換が必要になる 結果として、安全性も経済性も損なわれてしまう。 転倒リスクも無視できない エスカレーターで歩くこと自体もリスクがある。可動部の上を歩く行為は不安定であり、急停止時には転倒や多重衝突の危険がある。 実際、国土交通省や鉄道各社も「エスカレーターでは歩かずに両側に立つ」よう呼びかけている。これは単なる“お節介”ではなく、実際の事故件数や設計基準に基づく合理的な提言なのだ。 「急いでいる人のために」は本当に合理的か? 確かに、片側を空ければ「急いでいる人が早く移動できる」という一面はある。しかし、それが全体の流れをスムーズにするとは限らない。 片側しか使えないことで、結果的に輸送効率が落ちる 高齢者や子どもが“片側に立たされる”ことで不安定に むしろ、両側に人が立つ方が安定的に大量輸送できるという試算もある。 まとめ:合理的に見えて、実は不合理 片側空けは、「思いやり」や「マナー」として根付いた行動かもしれない。しかし、それが設計や安全、効率の観点からは逆効果であるなら、私たちは再考すべきだろう。 本当に大切なのは、「誰かのために空ける」ことではなく、全体の安全と合理性を優先する視点なのではないか。 こうしたマナーと科学のすれ違いは他にも存在する。関心のある方は以下のまとめ記事を参照して欲しい。 「それ、本当に正しいのか?」──マナーと科学のすれ違い8選
コロナ禍を機に、私の職場でもリモートワークが導入された。世の中的にも定着しつつあるが、導入時、印象的な出来事があった。 入社直後にリモートワーク突入 ある年、新人が入社してからわずか一か月ほどで、コロナ禍により全国的にリモートワークが推奨される状況となった。その新人は、他のメンバーがまだ様子を見ながらリモート移行を進めている中、真っ先に「リモートワークします」と宣言し、以後2~3週間まったく出社しなかった。ここまでなら積極性と捉えることもできるかもしれない。 だが、問題はその後だった。 リモートワークに必要なのは「仕事の回し方」の理解 私自身もリモートワークを経験して感じたが、これは「ある程度仕事が一人で回せる人」しか成立しない働き方だ。 リモート下では、やりとりの手段がメール・電話・チャットなどに限定される。つまり、インプット・アウトプットの情報量が少なく、会話の行間も読めない。そのぶん、自発的にタスクを回し、必要な時に必要な人に相談できる“段取り力”が要求される。 この新人は、仕事を自分で動かす経験が浅く、なおかつ性格的にも自分から質問したり、誰かに声をかけたりするタイプではなかった。 2~3週間誰にも質問せず、成果ゼロ リモート移行後、その新人は仕事でつまずいたり分からないことがあっても、誰にも相談しなかった。質問もしない。アウトプットも無い。結果として、2~3週間にわたって仕事の成果はほぼゼロ。 当然、上司や周囲は困惑し、リモートワークの是非以前に「この人、大丈夫か?」という空気が広がっていった。 なお、誤解のないように付け加えると、これは決して上司が放置していたわけではない。リモート環境下でフォローしようにも、新人本人が「どこで詰まっているのか」「何が分からないのか」を適切に言語化できず、かつ自ら発信しようともしない状態だったため、上司側から状況を把握するのが極めて難しかったのだ。 現場を知らないまま、指示ができるわけがない もしこの話がIT系であれば、また違った評価になったかもしれない。しかし、その職場はバリバリの製造業だった。しかも、新人は将来的に間接部門として現場に対して改善提案や指示を出す立場になる。 もちろん、入社直後にいきなり現場指導を求めるわけではない。だが、最低限「現場とはどういう環境か」を肌で感じ、「現場の声」や「製造工程」を観察・理解する必要はある。 にもかかわらず、新人は現場に触れることなく、製法の基礎すら身につけていなかった。大学で学んだ知識の再確認もせず、教科書的なアプローチもとっていなかった。正直、「製造業であることの重み」や「人に指示するという責任」を本当に理解していたのか疑わしかった。 それを新人にすべて求めるのは酷だという声もあるかもしれない。だが、少なくとも“全く出社せず”“誰にも質問せず”“成果がゼロ”という状況では、現場側が不満を感じるのも無理はない。 リモート可否は制度の問題ではない この経験を通して痛感したのは、リモートワークが可能かどうかは“制度の整備”よりも“人材の準備”の方が重要だということだ。 特に新人や未経験者の場合、リモートワークが可能かどうかは「性格」と「仕事の回し方の理解度」が決定的に効いてくる。学力や地頭の差も、こういう局面では顕著に出る。 リモートは便利な反面、自立できない人にとっては“孤立”に変わる。だからこそ、誰もが無条件にリモートできるわけではないことを、企業も制度設計時に織り込む必要があると感じた。 リモートワークと新人育成。この両立は、単なる「ツールの使い方研修」ではなく、“働く姿勢”や“段取りの習得”という土台がなければ成立しない。その教訓は、今でも忘れていない。
「環境のために、プラスチックストローから紙ストローへ」 ファストフード店やカフェで、紙ストローが出てくることは今や珍しくない。見た目には環境に配慮した行動に見えるが、本当に科学的・環境的に正しい選択なのだろうか? この記事では、紙ストロー導入の背景と現実、その環境負荷と実効性、そして「善意のエコ」が生み出す“合理的に不合理”な状況を検証する。 なぜ紙ストローが広まったのか? 紙ストローが注目された大きなきっかけは、**2015年にSNSで拡散された「ウミガメの鼻にストローが刺さった動画」**である。 この動画は世界的な反響を呼び、プラスチックごみによる海洋汚染への関心が一気に高まった。これを受けて、企業や自治体は**「脱プラスチック」運動の象徴的手段**として、紙ストローへの切り替えを進めた。 実はストローは海洋ごみ全体のごく一部 ところが、環境保護団体や研究者の調査によれば、ストローが海洋プラスチックごみに占める割合は0.03%以下とされている。 つまり、ストローを紙に変えたところで、根本的な問題解決にはあまりつながらないのが実情である。 紙ストローにも環境負荷はある 紙ストローは分解しやすいが、 製造時に水やエネルギーを多く消費する 耐久性を確保するために**防水加工(ラミネート)**が施されており、完全な自然分解は困難な場合も 使用感が悪く、途中でふやけて使えなくなるという不満も多い という課題がある。 結果的に、使用途中で捨てられたり、2本目が必要になったりすれば、リソース効率はむしろ悪化する可能性がある。 感情的マナーと科学的合理性のズレ 紙ストロー導入は、「ウミガメを守ろう」「海を守ろう」という感情的なモチベーションに基づいて広がった。 しかし、科学的・統計的に見ると、 本当に対処すべきは漁網や洗剤ボトルなどの大型プラスチック 廃棄インフラや回収率の改善のほうが、影響が大きい といった指摘がされている。 このように、目に見える変化や“やってる感”のある施策が、本質的課題から注意をそらしてしまうリスクもあるのだ。 結論:「行動の意図」と「効果」を分けて考える 紙ストローの導入は、「何かしなければ」という誠意や善意から始まった社会的アクションである。 だが、私たちは「行動したかどうか」だけでなく、 その行動が本当に目的に適っているのか? 他にもっと効果的な手段はないのか? という視点を忘れてはならない。 科学的・環境的合理性に基づいた対策を行うには、感情的モチベーションと冷静なデータの両立が必要である。 紙ストローは、合理的に不合理な社会の構造を象徴する好例のひとつにすぎない。 こうしたマナーと科学のすれ違いは他にも存在する。関心のある方は以下のまとめ記事を参照して欲しい。 「それ、本当に正しいのか?」──マナーと科学のすれ違い8選
「地球温暖化対策のため、冷房は28度で」 夏が近づくと、オフィスや学校、公共施設でよく目にするこの呼びかけ。 しかし、冷房を28度に設定することが本当に科学的・合理的な対策なのか? この記事では、その根拠と限界、そして制度とマナーが生み出す“合理的に不合理”な状況について検討する。 なぜ28度という数字が選ばれたのか? 「冷房28度設定」は、環境省が2005年に開始したクールビズ(COOL BIZ)キャンペーンの一環として打ち出されたもの。 しかし後年、報道などで明らかになったのは、28度という数字には科学的根拠がなかったという事実である。 気温設定による消費電力の差は当然あるが、28度という値は、冷房による消費電力削減と快適性のバランスからなんとなく“ちょうどよさそう”とされた便宜的な数値だった。 室温28度=設定温度28度ではない エアコンの設定温度28度=部屋の室温が28度ではない。 エアコンの位置や日当たり、建物の断熱性、部屋の広さ、人体の熱発散などの影響により、実際の室温は設定温度とはズレが生じる。 たとえば、設定温度28度でも実際の室温が30度を超えることは珍しくない。 これは、熱中症リスクの観点からはむしろ危険ですらある。 快適性と生産性の低下 人の快適性には個人差があるが、28度という温度は多くの人にとって暑すぎる。 ・集中力の低下 ・汗による不快感や衣服の汚れ ・PCや電子機器の発熱による悪循環 といった副作用を生み、業務効率や健康状態にも影響を与える可能性がある。 つまり、省エネの名目で採用された28度設定が、かえって経済的・人的コストを増やすことすらある。 実は「服装で調整して」という前提だった 本来クールビズは「軽装で過ごしやすくしよう」という運動であり、28度設定はその前提に基づく“目安”に過ぎなかった。 にもかかわらず、いつしかこの数値だけが独り歩きし、スーツ着用のまま28度設定で我慢するという、非合理な運用が広がった。 これもまた、制度とマナーがかみ合わない典型的な事例である。 結論:マナーも制度も、定期的な見直しを 冷房の28度設定は、善意のエコ行動として始まったが、科学的な再検証や制度的なアップデートが不十分なまま習慣化された。 その結果として、 不快感による生産性の低下 誤った温度管理による健康リスク 結果的に省エネにならない運用 という“合理的に不合理”な状況を生んでいる。 私たちは「環境のため」と思っている行動が、**本当にその目的にかなっているのか?**を時折見直す必要がある。 制度やマナーもまた、科学と同じように更新されるべき知識体系の一部なのだ。 こうしたマナーと科学のすれ違いは他にも存在する。関心のある方は以下のまとめ記事を参照して欲しい。 「それ、本当に正しいのか?」──マナーと科学のすれ違い8選
電車でスマホの電源を切るべきなのか?──科学とマナーのすれ違い 「優先席付近ではスマートフォンの電源をお切りください」 誰もが一度は聞いたことのあるこのアナウンス。多くの人は「ペースメーカーに悪影響があるなら仕方ない」と思って、スマホの電源を切ったり機内モードにしたりしてきた。 だがこのマナー、本当に必要なのだろうか? 本記事では、この“善意の行動”と科学的根拠のズレに注目し、その背景と現在の状況を明らかにする。 なぜ電源OFFが求められるようになったのか? 1990年代から2000年代初頭にかけて、携帯電話の出す電波がペースメーカーなどの医療機器に悪影響を及ぼす可能性があるとされた。 実際にごく初期の携帯端末では、医療機器にごく近づけた場合に誤作動を起こす可能性がゼロではなかった。これを受けて、公共交通機関では「電源OFFマナー」が普及した。 現代の医療機器はどうか? 現在のペースメーカーやICD(植え込み型除細動器)は、電磁波耐性が非常に高い。 日本不整脈心電学会や医療機器メーカーは、電波による影響はほとんどないと公式に発表しており、**「電源を切る必要はない」**という立場である。 たとえば、NTTドコモの資料やJR東日本の見解でも、ペースメーカーの誤作動リスクは極めて低く、スマートフォンを使っていても問題ないという結論が出ている。 むしろ“電源OFFマナー”が逆効果になる場合も 通勤ラッシュ時などに「優先席付近だから一斉にスマホの電源を切る」ことで、通信端末がネットワークから切断され、再接続時に一気に通信が集中することがある。 このような急激な接続集中は、基地局にとっては一種の負荷になり、通信品質の低下やネットワーク側の誤動作を引き起こす可能性すらある。 つまり、マナーが原因で通信環境全体に悪影響を与えるという、皮肉な逆転現象が起きる。 「マナー vs 科学」の象徴的な事例 この問題は、善意のマナーと科学的現実のすれ違いの典型例である。 電源OFFを呼びかける鉄道会社側も、決して悪意があるわけではない。苦情や事故のリスクを避けるため、“最も無難な対応”として継続しているのだ。 だがその背景には、古い情報が社会に居残り、アップデートされないまま続いている構造的な問題がある。 余談:病院で感じたカルチャーショック つい最近、久しぶりに病院を訪れたところ、かつては至るところにあった「携帯電話の電源をお切りください」の張り紙が、すっかり姿を消していた。 それどころか、待合室には「ご自由にお使いください」というWi-FiのSSIDとパスワードが掲示されており、明らかにスマートフォン利用を前提とした環境になっていた。 この光景には、正直なところ軽いカルチャーショックを受けた。「あれだけ電波がどうこう言われていたのに?」という思いもあったが、逆に言えば、病院ですらスマホ使用を許容しているという事実が、何よりも“安全性”の裏付けになっている。 結論:情報もマナーも、アップデートが必要だ 科学や技術は進歩する。にもかかわらず、社会のマナーやルールはその進歩についていけないことがある。 「優先席ではスマホの電源を切る」という行動は、今や科学的には非合理的である可能性が高い。 今後は、こうした「かつて正しかったこと」が今も続いていないか、常に見直す目を持つことが重要だ。 それが、合理的に不合理な社会を少しずつほぐしていく第一歩になる。 こうしたマナーと科学のすれ違いは他にも存在する。関心のある方は以下のまとめ記事を参照して欲しい。 「それ、本当に正しいのか?」──マナーと科学のすれ違い8選
日常生活で「良かれ」と思って行っている行動が、科学や工学の視点から見るとまったく逆効果であることは珍しくない。 社会的な常識やマナー、善意の行動が、技術設計や制度設計と衝突することは少なくない。しかも、それが“正しいこと”として長年信じられてきたとなると、もはや修正は困難である。 本記事では、そうした「合理的に見えて、実は不合理」──すなわち合理的に不合理な8つの事例を紹介する。 1. エスカレーターの片側空けマナー 概要: 急ぐ人のために片側を空けて乗るのが“良いマナー”とされているが、これは機械設計上は完全に誤りである。偏摩耗やチェーンへの負担が蓄積し、寿命が縮む。しかも、歩行時の転倒事故リスクも高い。設計者からすれば「やめてほしい」使用法である。 エスカレーターの片側空けマナーは間違っている? 2. 優先席でスマホの電源を切る 概要: ペースメーカーへの電波干渉を防ぐために「スマホの電源を切る」マナーが広まったが、現代の医療機器は高い耐性を持ち、ほぼ無意味である。実際には「一斉ON/OFFで逆に通信負荷が集中」することで、想定外のトラブルも生じ得る。 電車でスマホの電源を切るべきなのか? 3. ハンドドライヤー使用自粛(コロナ禍) 概要: コロナ禍で「飛沫拡散の温床」として非難されたハンドドライヤー。だが、メーカーや複数の研究では感染拡大の根拠は見つかっていない。むしろ衛生的かつエコであり、使用自粛は“なんとなく不安”が先行した対応である。 ハンドドライヤー自粛は本当に必要だったのか? 4. 紙ストローはエコという誤解 概要: プラスチックごみ問題の象徴として紙ストローが普及したが、製造には水・エネルギー・薬品が多く必要で、CO2排出量は紙の方が高い場合もある。使い心地も悪く、実際は“エコっぽさ”を演出しているだけの可能性が高い。 紙ストローは本当にエコなのか? 5. レジ袋有料化は本当に効果があったか? 概要: レジ袋削減は“脱プラ”政策の一環として導入されたが、実際には多くの人がゴミ袋として再利用しており、別途ゴミ袋を買うようになっただけである。代替の厚手袋や紙袋はむしろ環境負荷が高いこともある。 6. 割り箸を使うのは森林破壊? 概要: 「森を守るために割り箸をやめよう」という運動がかつて盛んだったが、日本の割り箸は間伐材や端材が中心で、林業の持続性に寄与する側面もある。消費減がかえって山林管理の衰退を招いたという皮肉な事実もある。 7. 冷房は28度設定が正解? 概要: 「エコな温度設定」として定着した28度だが、これは科学的根拠なく行政がなんとなく決めた数値である。28度設定で実際の室温がそれに届かず、熱中症リスクや作業効率の低下が発生する例も多い。 冷房28度設定は本当にエコなのか? 8. アイドリングストップはいつもエコ? 概要: 停車時にエンジンを切るのがエコとされるが、頻繁な再始動によるバッテリー・セルモーターへの負担や、再始動時の燃焼効率低下により、短時間ならかえって環境負荷が高いこともある。状況に応じた判断が必要である。 まとめ:善意と科学がすれ違うとき これら8つの例に共通しているのは、「社会的な善意」や「なんとなくの正しさ」が、技術的・科学的な現実と食い違っているという点である。そしてそれらは、誰かを責められるようなものではない。 むしろ、人間の価値観と科学技術がすれ違う場面を、どう乗り越えるかが重要なのである。 本記事が「正しいと思っていたこと」を問い直す一歩になれば幸いである。 次回からは、これらの事例を1つずつ掘り下げていく予定である。